考古学の視点で桜井市の歴史をめぐる(忍阪地区周辺)

天王山古墳入り口柵 桜井市

本日は月一恒例の「考古学サークルなら」!

こちら、20年以上の歴史があるサークルで現在は「郡山史学会」の代表・服部伊久男さんが講師をしていただいてて、毎回わかりやすいご説明をしていただくサークルです。私は1月から参加させていただいたのですが、今まで奈良はたくさん回ってるけど、深いところを知らなかったので、すごく勉強になります!サークル気になる方は、ぜひ「ならかんTwitter」もしくは「ならかんInstagram」からDMをください!

ということで、本日(2月4日)は桜井市をめぐりました!12時のバスに乗るために11時45分集合!

JR桜井駅

JR桜井駅からの風景

雲が多いけど晴れてて良かったです!

12時の大宇陀行きのバスに乗って約15分くらい?下尾口というバス停で下車。

棚田の風景

近くには粟原川(おおばらがわ)が流れており、出発した桜井駅の方に向かって流れております。この粟原川は駅付近に毎年綺麗な桜を咲かせて、穴場花見スポットらしいですよ

粟原川

まずは腰塚古墳に向かいます。結構登っていくんですがのどかな道が続きます。

腰塚古墳へ向かう道

腰塚古墳へ向かう道

腰塚古墳へ向かう道

腰塚古墳へ向かう道

約15分くらい?歩いたところに腰塚古墳があります。

腰塚古墳説明碑

腰塚古墳は6世紀末ごろの古墳で形は方墳(墳丘の平面形が方形になる古墳)で垂直式の石室。

ほぼ同じごろに作られた古墳で言うと広陵町の牧野古墳(ばくやこふん)があります。腰塚古墳は牧野古墳よりひと回り小さい古墳ではあります。

古墳入り口

腰塚古墳入り口から見た古墳内部です。少ししゃがめば入れるので、そんなに大変じゃなかったですが、当然内部は真っ暗なのでちょっと怖いです笑

腰塚古墳の内部から入り口を向いて

腰塚古墳内部から外を見ると、外の日差しがとても綺麗です。

腰塚古墳石室内部

腰塚古墳内部の天井は1枚岩で、だいたい3m以上ありそうです。こんな岩を1500年前の人はどうやって運んだんでしょう。どこの重機使ったんだろ?(手動です)

腰塚古墳石室内部天井

腰塚古墳内部、石棺を置いてた一枚岩は加工されており、平らになってました。

腰塚古墳石室内部床

腰塚古墳石棺がどうなったのかは、お話聞けなかったですがどこも盗掘とかに潰されたんでしょうねー墓荒らしとかほんとやめてほしい。

腰塚古墳石室石棺

腰塚古墳の石室を上から撮影した風景です。元々はちゃんと築かれていたけど歴史と共に土に還って行ってるんですねー自然はすごい!

腰塚古墳外部

腰塚古墳からは生駒山が綺麗に見れました。南部の山々からは生駒山や信貴山、二上山など綺麗に見れますよー奈良盆地最高!

腰塚古墳から生駒山を望む

そして、腰塚古墳からバス停の方に戻って、三叉路を反対側に登ると赤坂天王山古墳があります。

天王山古墳説明碑

天王山古墳入り口、とてもわかりやすいですw周りは畑が広がっており柵で覆われております。間違っても畑に入らないようにしましょう!扉も野生動物が畑を荒らすのでちゃんと閉めましょう!こういったところはちゃんとしないとダメですよね!

天王山古墳入り口柵

天王山古墳の鉄柵を過ぎたところです。ここが古墳だとはパッと見てもわからないですよね。

でも、この奥に赤坂天王山古墳があります。

天王山古墳外部

天王山古墳入り口。先ほどの腰塚古墳と違ってめちゃくちゃ狭い!新人の私は、1番槍として入りました!(ほんと怖かったw)

天王山古墳入り口

天王山古墳入り口から入るのは、坂を滑り落ちながら入っていく感じで、奥は当然真っ暗!ここ最近で一番怖かったですw絶対懐中電灯いるので、行かれる方はちゃんと持っていきましょうね!

中に入ると、なんと石棺が原型をとどめたままになってます!こんな石棺間近で見たことない!

天王山古墳石棺

この石棺は、家形石棺といい縄掛突起も綺麗に残っています。とても感動しますよ!ほんとこんな大きい石室で石棺も綺麗に残ってるところはないんじゃないかな。写真に白く写ってるのは、あれですよ…当然、ここは墓なのであれしかないですよ…

というのは、嘘で砂煙です。床は砂が堆積していて歩くと砂煙が舞います。マスクも忘れずに持ってきてくださいね。

天王山古墳家形石棺

石棺に大きい穴が開いてますが、これは盗掘した人が開けた穴でしょうか?盗掘反対!歴史的にここが誰の古墳かわからなくなります!

天王山古墳石棺の盗掘跡

天王山古墳石棺の中は落書きもされてたりして、最悪ですね。この古墳誰でも入れるんですがちゃんと管理した方がいいんじゃないでしょうか。

天王山古墳石棺の内部

天王山古墳石棺の全景。真っ暗で砂煙がすぐ舞うので写真撮影難しかったです。

天王山古墳家形石棺

天王山2号古墳の入り口です。ただ埋まってて入れないです。この辺りは尾根沿いに古墳が50基ほどあるらしいです。

天王山古墳2号古墳

天王山古墳を下り越坂方面に向かいます。こちらは越坂街道の石碑。越坂街道は昔の阿騎野に向かう道。主要街道は初瀬ではなく越坂だったのか?と先生はおっしゃってました。なぜならこちらの街道には古墳がたくさんあるが、初瀬の方にはほぼ古墳がないからだそうです。納得なお話。やっぱり先生の話はとても参考になります。

越坂街道石碑

越坂街道の説明看板です。所々読めなかったですが、越坂街道の説明が書いてます。

越坂街道説明

越坂街道を大和朝倉駅に向かって歩くと、石位寺があります。ここには東京国立博物館でも展示されたすごいものがあるんです!

石位寺石碑

石彫三尊仏のご説明。6世紀くらいの三尊仏だそうです。

石位寺説明

お寺からは外鎌山(忍阪山)が綺麗にみれます。でも、一番綺麗に見えるのは大和朝倉駅方面からだそうです。そしてこの右側に秘仏(予約したら見せていただけるそう?)石彫三尊仏があります。撮影厳禁なので取れませんでしたが、とても優しいお顔をした薬師如来様で、ずっと見続けられます。また朱色の口紅なども塗られており、白鳳時代に丁寧に作られたことがわかります。

外鎌山(忍阪山)

石位寺正面からの写真です。実は奥に三尊仏が見えます。保存会の方がここからだったら撮っていいと言ってくれたので、撮影しました。ありがとうございます、保存会の皆様!

石位寺正面

白鳳時代の石彫薬師三尊仏

石位寺を後にして、次は舒明天皇陵に向かいます。忍阪街道は先生も言ってたとおり、すごいお墓がたくさん!

舒明天皇(じょめいてんのう、593年?〈推古天皇元年?〉- 641年11月17日〈舒明天皇13年10月9日〉)は、日本の第34代天皇(在位:629年2月2日〈舒明天皇元年1月4日〉- 641年11月17日〈舒明天皇13年10月9日〉)。

田村(たむら)。 和風諡号息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。漢風諡号の「舒明天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって名付けられたとされる。

 

舒明天皇陵石碑

こちらが舒明天皇陵。八角系の天皇陵で少し高い位置に拝所があります。舒明天皇陵は天皇陵ファンには有名ということなので割愛しますが、静寂が辺りを包み空気が変わる場所。ぜひ一度行ってみてください!心が洗われますよ!

舒明天皇陵

舒明天皇陵の右側に細い道があり大伴皇女墓まで続いております、途中に鏡王女の塚があります。

鏡王女説明

途中、小川があったのですが、なぜか小川の中に鏡王女の歌碑が立っていました。なぜここに歌碑があるのか知ってる人いてたら教えてください!

川にある石碑

大伴皇女墓に行く途中、鏡王女忍阪墓がありました。実はこちら宮内庁管轄ではなく談山神社が管理しているとのこと。なぜ宮内庁管轄じゃないのでしょうか。

鏡王女は藤原鎌足の正。『万葉集』では鏡王女、『日本書紀』では鏡姫王と記されている。『興福寺縁起』・『延喜式』では鏡女王。『興福寺縁起』では藤原不比等の生母(後世の創作とする説もある)。また後述するが「鏡王女」と「鏡姫王」を別人とする説もある。

鏡王女の墓

鏡王女説明

鏡王女墓を過ぎると外鎌山(忍阪山)との分かれ道があります。ここを左に行くと大伴皇女墓に向かうことができます。間違っても右に行ってしまわないようにしてください!

外鎌山分かれ道

今日は本当によく歩きました。歩数計見たらこの時点で15,000歩!

大伴皇女墓の階段

ついに大伴皇女墓に到着!

大伴皇女は欽明天皇と堅塩媛(蘇我稲目の娘)の皇女で古事記には大伴王と記されています。兄弟には推古天皇、用明天皇がいます。したがって大伴皇女は聖徳太子の叔母さんという事になります。この墳墓は平安時代に書かれた延喜式には「大伴皇女押坂内墓」とされ現在、宮内庁で管理されています 

大伴皇女墓1

大伴皇女墓2

大伴皇女墓3

大伴皇女墓の周りはぐるっと1周回れます。ここは丘陵地を削って古墳にしたそうです。

宮内庁管理ですが、一部は柵が崩れて入れるようになってるけどくれぐれも入らないようにしてくださいね。

 

大伴皇女墓は行き止まりになってるので、ここから来た道を戻っていき、大和朝倉駅方面に向かいます。大和朝倉にも住宅地建設時に出てきた古墳があり、移築されて公園の上にあります。このように忍阪街道沿いの尾根にはたくさんの古墳があり、歴史を体感できるいい場所となっています。ぜひ一度は行ってみてください!

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