3月に整備完了して話題の牽牛子塚古墳周辺を探索 |考古学サークルなら(2022年4月)

牽牛子塚古墳石碑 明日香村

明日香村の牽牛子塚古墳周辺を探索!

月一恒例の考古学サークル!今回は、明日香村を探索!今回で4回目!1回目は、初参加ですごく難しい話が多くあっという間に終わって、2回目は桜井で古墳の中に入ってびっくり!3回目は初奈良市内で埴輪窯元跡にびっくりしましたが、今回は名前を聞いたことのある有名スポット牽牛子塚古墳!行く前から結構ワクワクしてました!

当日は飛鳥駅に集合!


駅前は観光客の方がたくさんいてて、石舞台古墳の方に行かれる方たくさんいてました!私たちは反対側!牽牛子塚古墳方面に向かいます!

岩屋山古墳

岩屋山古墳は、飛鳥駅から歩いて5分くらいのところにあって、斉明天皇のお墓の可能性があると言われています。石室は、切石加工を施した巨石を使用した横穴式石室で、これと同じ石室を持つのが、桜井市のムネサカ1号墳。前々回に行った腰塚古墳の栗原川を渡って反対側にある古墳でほぼ同じ作りの石室となっているそうです。岩屋山古墳の奥壁は2段、石室は下が3段上が2段で、切石加工をされていますが、ムネサカ1号墳は切石じゃなくて自然の石を使っています。

ムネサカ1号墳は山の上なので築くのは大変だったんでしょうね。ムネサカ1号墳も、腰塚古墳、天王山古墳も石室の上には大きい1枚岩を使ってるので、昔の人はこれを運んだのすごく大変だったんでしょうねーって先生に言ったら、でも戦国時代のお城も同じようにして切り出して運んでたから、本当この数十年の文明進化がすごいんですよ。って言ってて確かに!ってなりました。

また、ここ以外にも橿原市の小谷古墳、天理市の峯塚古墳、河内太子にある叡福寺古墳も同じ石室の古墳になってて、古墳後期には設計図があって石室造りの工人が作っていたと考えられています。

岩屋山古墳は乱掘等で何も残っていなかったそうですが、石室はどのようになっていたかというと、石室入り口(玄室(げんしつ))から、羨道(せんどう)があって羨道の入り口の羨門(せんもん)の石には掘った跡があり、ここに門がはまっていたとされています。羨門の先にも石積みがあって墳丘の外まで土で埋めずに羨道の入り口があったということです。その時に奈良の古墳はほぼ全てが南向きになってるって話だったんですが、理由は聞けなかったので次回に先生に聞いてみようと思います。


牽牛子塚古墳・腰塚御門古墳

本日のメイン牽牛子塚古墳と手前にある腰塚御門古墳!先ほどの岩屋山古墳から10〜15分くらい歩いたところにあります。すごくキレイに整備されてますが、以前はこんなに整備されていなかったそうですが、その時に見てみたかった!牽牛子塚古墳は大正時代から国の史跡になっていたそうです。昔は道路がなかったので、竹藪側から見に来れたらしいですよ。この写真の右の方から来たんですね。かなりの藪だw

7世紀後半のくり抜き式横口式石槨で八角墳。主体部は横口式石槨ですが、少し変わっていて大きい石をくり抜いて棺を2つ入れるような仕組みになっていて、益田岩船古墳鬼の俎雪隠も同じような仕組み。牽牛子塚古墳はその周りを石英安山岩の切石で囲っている。1辺が22m、高さ4.5mとなっている。この古墳は土でできてるように思うが、切石で囲っていた。ここより前の古墳は自然石を使っていたが、ここは切り石を使っていた。

腰塚御門古墳は最初わからなかったが、発掘調査をしている際に見つかった古墳。牽牛子塚古墳と同じく、くりぬき式の横口式石槨。ここは床石と蓋に分かれてその中に棺が入っている。あまり馴染みのない構造だけど、同じような構造の古墳は、竜田御坊山3号墳は斑鳩にある古墳で石室は橿原市考古学研究所の庭に展示されているものも同じ形態となっている。こういった形態は7世紀前半から初めって、後半には飛鳥にはたくさんできた。八角墳は天皇皇族の古墳となっている。

牽牛子塚古墳も斉明天皇陵という説があり、岩屋山古墳よりもこちらの方が有力とされている。この辺りの尾根は大きい古墳が多く天皇が多く葬られていたのではないかと考えられている。牽牛子塚古墳は石室が2つに分かれていて、2人埋葬されていたと考えられている。現在の史跡では二つの石室が分かれていることが見れるようになっていて、手前に大きい石は閉塞石と言われ石室を閉じていた石と考えられている。ちなみに「牽牛子」とはアサガオを意味する「牽牛」の種子のこと。牽牛とはアサガオのことでアサガオは八角形だからそう呼ばれているとか、アサガオの種子を乾燥させ砕いて漢方薬に用いる生薬(しょうやく) にしてたことから。など諸説あるそうですが、とりあえず牽牛って書けないw

また埋葬者は、牽牛子塚古墳は斉明天皇と間人皇女、腰塚御門古墳は斉明天皇の孫の太田の皇女が埋葬されたのではないかと言われている。



真弓かんす塚古墳

墳丘は北西に延びる丘陵を大規模に造成して築かれた直径約40m、高さ約8mの二段築成の円墳で自然石をドーム状(球粒状)に積んだ石室となっており、今にも崩れそうな石室になっているそうです。今は色々あって立ち入りを制限されているそうなので、行かれる方は間違っても勝手に入らないようにしてくださいね。

ドーム状の石室はここを一番東の端として、西に同じような作りの石室が広がっている。この辺りの古墳は東漢氏の古墳群となっている。

与楽乾城(カンジョ)塚古墳

国の史跡になっていて、高取町が整備を進めている。石室は門で締められていて入れない状態になってます。この辺りはドーム状の石室が多くこの古墳もドーム状になってて、真ん中には漆喰で作られた石棺を置く場所がある。奥壁は4段くらい、側壁は5段くらいになっている。玄室は正方形に近い長方形となっている。羨道部分までは入ってみれるようになっている。天井は1枚石を使っていて側壁は真ん中くらいまでは垂直でそれより上はカーブしている。高さ5.3mは奈良で一番高い石室です。遺物は盗掘によりほとんどない状態だったそうです。こちらも東漢氏のお墓。ここも少し前は入れたそうなので、古墳に興味持つのもっと早ければと思うばかりですw

諸先輩方は中に入ったみたことがあるそうで、すごい高さだってしきりに言ってました。ここも尾根を使って作られている古墳で横と後ろを削って古墳を作っている。

ちなみに渡来人って、数人がやってきて住んでたと思われてる方もいますが、本当は数百人単位で来て東漢氏のように集落を作り住んでいて、新しい文化を伝えたりしてたそうです。そこで日本人の人と結婚したりしてるので渡来系だけの方が埋まってるわけじゃなくて、日本人も埋葬されているそうです。

与楽かんす塚古墳

与楽乾城塚古墳から少し奥に入ったところに与楽かんす塚古墳があります。すでに墳丘はだいぶ崩れてきてて石室は入れない状態です。ここも石室はドーム状の石室となっている。天井高は4.3mで全体的に小型の石室になっている。ここは6世紀後半となっており石室は奥壁が7、8段くらいとなっている。

かんす塚とは

真弓かんす塚古墳や与楽かんす塚古墳など、かんす塚って名前をよく聞きますが(奈良では他にも御所市の掖上鑵子塚古墳など)、鑵子(かんす)とは、青銅・真鍮等で作った湯釜や茶の湯に用いる茶釜のことで、この茶釜を逆さに向けた形に似ているので、かんす塚古墳って名前が付けられているそうです。

寺崎白壁塚古墳

1片30mで高さ9mの方形墳、古墳を大きく見せるため堀割(横と後ろを掘っている)で墳丘を作っている。(何型かメモるの忘れた牽牛子塚古墳のくり抜き式石槨とは別)横口式石槨になっていて、奥に一段高くなっていて長方形の部屋が石槨部、その前の部屋が前室となっている。ここも真弓かんす塚、与楽かんす塚古墳と同じく渡来系の古墳となっている。また、寺崎白壁塚古墳以降は大きい古墳は見つかっておらず、火葬などが増えてきたと考えられている。この古墳、実は2か月前に行った場所桜井市の大伴皇女の古墳が同じ作りで、手前から迫り上がっていて周りを削って古墳を作っている。こういう作りは7世紀後半になって出てくる作り方だそうです。またこの作り方は風水思想が関係しているといわれている。


寺崎白壁塚古墳に行くときに見えた古墳

番外とも言えますが、寺崎白壁塚古墳に行く途中、開口部が見えてました。

ここの中を見たくなって、諸先輩方に行って見てきてって言われて見に行って来ました。開口部から見て奥は広いのかと思ったけど、そこまで広くなくて土で埋まっている感じでした。


ここは地盤も滑りやすく、ちょっと怖かったので皆さんも、もし行こうと思った方は自己責任でお願いいたします!

今回もとても楽しい考古学サークルでしたが、知識がなさすぎて質問もできないので予習復習をもう少し頑張りたいと思います!

アスカ・ルビーソフト

番外の番外ですがw帰りに先輩にアスカ・ルビーソフト食べて帰ろうっていわれて、一緒に食べました!めちゃくちゃ濃厚でいちごの味もしっかり!こんな美味しいアイスあるんだ!って感じでした。これからは考古学サークルの後にスイーツもいいかもw

ということで、今回も楽しい考古学サークルを堪能しました!皆さん優しい方ばかりで勉強にもなって、美味しいものも食べれる!そんな考古学サークルならにご興味あれば、ぜひ無料体験して見てください!

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