奈良市の奈良穴場観光スポット『太安萬侶墓』




太安萬侶墓 | 古事記を編者として有名な太安萬侶のお墓

3.0
評価する太安萬侶墓は奈良市此瀬町にある史跡で東山山中の田原の里に所在する奈良時代の火葬墓。
昭和54年1月、竹西英夫氏によって茶の改植中に発見されたもので、出土した銅製墓誌により、古事記の編者としても有名な
太安萬侶の墓であることが明らかになった。
墓誌には「右京四條四坊従四位下勲五等太朝臣太安萬侶以発亥年七月六日卒之養老七年(723年)十二月十五日乙巳」の
四十一文字が刻まれ、居住地、位階と勲等、死亡年月日、埋葬年月日を記している。
墳丘は直径4.5メートルの円墳と推定され埋葬施設は中心部に墓拡を掘り、そこに木炭を敷いて墓誌を置きその上に木櫃を安置し
四周と上面を木炭で覆った木炭槨であった。さらにその上の墓拡全体をうすく木炭で敷いた後、砂質上を版築状に硬くつき固め
、木櫃の中には火葬骨、真珠等を収めてあった。
奈良時代上級官人の墓としては、このような規模、構造、遺物の出土状況等が明らかにされた例は極めてまれです。
また、太安萬侶がどういった人物だったかと言うと、さきほど書いた通り奈良時代の上級官人で
和銅4( 711)年、元明天皇に命じられて稗田阿礼が誦むところを一書にまとめさせる。太安萬侶は、
古事記を上・中・下の三巻として、和銅5(712)年に天皇に献上している。太安萬侶の太(おお、おほ)という名は、
新羅系の帰化人で「おほ氏」と呼ばれる一族だったとされている。
また続日本紀(しょくにほんき)には、慶雲元(723)年、太朝臣安侶が霊亀2(716)年氏の長となる、という一文がある。
養老7(723)年死去し、民部卿・従四位下に処せられたとある。「弘仁私記」(こうにんしき)と言う書物には、
多朝臣人長(ひとなが)太安萬侶は、「古事記」を書き「日本書紀」の編纂にも参加したと記述されているところがある。
太安万侶は古事記の上巻を編纂しただけで、残りを実際に執筆したのは柿本人麻呂という説もあるようだが、
信憑性があるのかは定かでない。
太安萬侶墓を観光した運営者の感想
柳生の里に行った帰りに行ったことのない道で帰ろうと思ってたところたどり着いた場所です。
はじめは、太安萬侶という人が誰なのかもわからず、有名な人なのかなーという程度で見ておりましたが、
かえって調べてみてびっくり!あの古事記編纂をした人だったというのにびっくりしました。
この近くには光仁天皇のお墓もあるため、もしかしたらこの茶畑には色々な奈良時代の有名な人が葬られているのかもしれないですね!
観光基本情報
奈良市の観光地名 | 太安萬侶墓 | 古事記を編者として有名な太安萬侶のお墓 |
---|---|
ジャンル | 建物・建築物 景色 古墳 |
住所 | 奈良県奈良市此瀬町 |
電車・バスでのアクセス | 近鉄奈良駅から田原方面行きバスに乗車「田原横田」下車 徒歩20分 |
車でのアクセス | |
駐車場 | 近隣に駐車場はなし |
入館、拝観料など | |
営業時間 | 00時00分~00時00分 |
休日 |