考古学サークルなら2025年1月〜真弓の丘からキトラ古墳・檜隈寺跡を巡る〜

特別史跡キトラ古墳の石標と墳丘 明日香村

あけましておめでとうございます!

2025年1月の考古学サークルならは、近鉄の飛鳥駅をスタートして、真弓の丘陵に点在する終末期古墳から、キトラ古墳、檜隈寺跡までを巡りました!

この日は飛鳥駅のまわりに、うっすらと雪が残っていました。

近鉄飛鳥駅の駅名看板

雪が残る飛鳥駅前の小道

まずはマルコ山古墳へ向かいます!

マルコ山古墳の墳丘

説明板によると、天武・持統陵から西南の一帯は、飛鳥地域でも有数の終末期古墳(7世紀後半・飛鳥時代)が集まるところで、「真弓岡(まゆみのおか)」とも呼ばれているそうです。マルコ山古墳もその中のひとつで、真弓丘陵の東西にのびる尾根の南斜面、標高約120mのところに造られています。

史跡マルコ山古墳の説明板

昭和52・53年と平成2・16年の発掘調査で、版築で築いた対角辺24m、見かけの高さ約5.3mの二段築成の六角形墳と考えられるようになりました。石室は凝灰岩の切石を組み合わせた横口式石槨で、内側の寸法は長さ271.9cm、幅128.5cm、高さ143.3cm。床も含めて内壁全体に漆喰が塗られていたそうです。

出土品は、漆塗木棺(乾漆棺)の破片や釘、金銅製六花形棺飾金具、大刀金具、尾錠など。被葬者はまだ分かっていませんが、皇族クラスの人物ではないかと考えられています。

古墳のあたりからは、雪の残る山並みがよく見えました!

マルコ山古墳付近から見た雪の残る山並み

次は櫛玉命神社へ!石段を上がった先にお社があります。

櫛玉命神社へ上る石段

ここから高取町の佐田へ向かいます!春日神社の石標を過ぎて木立の中の石段を上がると、束明神古墳があります。

束明神古墳の説明板(高取町教育委員会)

高取町教育委員会の説明板によると、この古墳は明治26年の野淵竜潜による「大和国古墳墓取調書」に初めて記され、その後「大和国高市郡古墳誌」などにも報告されていましたが、それほど目立った存在としては扱われていなかったそうです。

橿原考古学研究所では高松塚古墳の調査のあと終末期古墳の研究を進め、束明神古墳が後背部に大きなカット面を持つなどの特色から、終末期古墳として注目してきたとのこと。昭和53年に外形の実測調査、昭和59年4月16日からは奈良県立橿原考古学研究所と高取町教育委員会が共同で発掘調査を行っています。

古墳は尾根の南側を直径約60mの範囲で造成し、その中央部に墳丘をつくっていて、石槨の規模もこれまで調査された終末期古墳にはみられなかった大規模なものだそうです。石槨の変遷や棺の構造、須恵器などから7世紀後半から末頃のものと考えられ、歯の鑑定では、性別は分からないものの年齢は青年期から壮年期と推定されています。

そして説明板には、はっきりと「草壁皇子(天武天皇と持統天皇とのあいだに生まれた皇子)の墓である可能性が大きいといわれている」と書かれています!

木立の中の束明神古墳の墳丘

でも、宮内庁が草壁皇子のお墓として治定しているのは、ここではありません。次はそちらへ向かいます!

岡宮天皇 眞弓丘陵の宮内庁の制札

こちらが岡宮天皇 眞弓丘陵です。草壁皇子は天皇に即位しないまま亡くなりましたが、没後の天平宝字2年(758年)に天皇の号が贈られたので、陵の名前が「岡宮天皇」になっているんですね。

宮内庁が治定する陵と、考古学的に有力だといわれる束明神古墳。歩いて行ける距離に2つあるのが面白いところです。本当はどちらなのか、謎ですよね〜。

次は古道を歩きます!田んぼの脇に「古道 紀路(高野街道)」の石標があって、「古代の幹線道 飛鳥〜和歌山」と刻まれていました。

「古道 紀路(高野街道)」の石標と束明神古墳の道標

少し歩くと、天誅組鳥ケ峰古戦場の石碑と説明板がありました。

天誅組鳥ケ峰古戦場の石碑と説明板

説明板によると、文久3年(1863年)8月17日、天誅組は倒幕の狼煙を上げるため五條代官所を襲撃し、26日には日本一の山城・高取城を攻めようと進んできました。高取藩はここ鳥ケ峰に、城代家老の中谷栄次郎を総指揮として防御・追撃の態勢をととのえ、大砲4門が火蓋を切って、天誅組は五條へ敗走したそうです。

飛鳥時代の古墳めぐりの途中で、いきなり幕末の話が出てくるのも奈良らしいですね!

次はいよいよキトラ古墳へ向かいます!国営飛鳥歴史公園のキトラ古墳周辺地区に入ると、「特別史跡 キトラ古墳」の石標が立っていました。

特別史跡キトラ古墳の石標と墳丘

キトラ古墳は2段に造られた円墳で、発掘調査のあと埋め戻され、2015年に古代の大きさに復元されているそうです。

昭和58年の調査で石室の中に極彩色の壁画が見つかり、高松塚古墳に次ぐ国内2例目の壁画古墳になりました。石室の壁には四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)や十二支、天井には天文図と太陽・月が描かれていて、壁画は保存のために石室からすべて取り外されています。壁画は令和元年に国宝に指定されたそうです。

キトラ古墳のすぐ近くには、キトラ古墳壁画体験館「四神の館」があります。入館は無料です!

キトラ古墳壁画体験館 四神の館の外観

館内には、新年らしく幡がずらりと並べられていました。

このあと行く檜隈寺跡の説明板に、国家の重要な儀式では三本足のカラスや日・月・四神を描いた旗(幢幡)が掲げられた、と書かれていたのですが、ちょうどそんな雰囲気の展示でした。

四神の館に並べられた幡と「謹賀新年」の札

地階には原寸大の石室模型があって、石室の中がどれくらい狭いのかがよく分かります。

四神の館地階の原寸大石室模型

壁画の実物は、期間限定・事前申し込み制で公開されているそうです。

最後は檜隈寺跡へ!

門松の立つ於美阿志神社の拝殿

説明板によると、檜隈は百済から渡来した阿智使主(あちのおみ)が住んだと伝えられる地で、於美阿志神社はその阿智使主を祭神としているそうです。檜隈寺跡はその神社の境内にあり、史跡に指定されています。

檜隈寺の名前は『日本書紀』の天武天皇朱鳥元年の条に見え、7世紀に倭漢氏(やまとのあやうじ)の氏寺として建てられたと考えられています。この倭漢氏の子孫には、征夷大将軍として有名な坂上田村麻呂がいるそうです!

発掘調査から、中門・金堂・講堂・塔と、それらを取り囲む回廊がある立派な伽藍だったことが分かっていて、中門が西側にあるとても珍しい配置だそうです。

境内の十三重石塔は、上層の一部が欠けていますが、平安時代から残る重要文化財です。

檜隈寺跡の十三重石塔

講堂跡の説明板によると、講堂は昭和56年に奈良国立文化財研究所が発掘調査していて、基壇は東西35.3m、南北21.2m、高さ1.2m。建物は7間×4間の四面庇で、飛鳥寺や法隆寺西院伽藍の講堂に匹敵する大きさだそうです。

基壇のまわりには瓦を積んだ「瓦積基壇」が使われていて、近江の崇福寺・南滋賀廃寺や山城の高麗寺などで見られるものの、飛鳥では初めて見つかったものだそうです。朝鮮半島に多い造り方なので、檜隈寺が渡来系氏族である東漢氏の寺として建てられたことを物語っている、と書かれていました。

今回は約7kmくらいの距離を歩き、マルコ山古墳、束明神古墳、真弓丘陵、キトラ古墳、檜隈寺跡を回りました。

草壁皇子のお墓の話に、幕末の古戦場、渡来人のお寺と、飛鳥の南のはしっこにもたくさんの歴史が詰まっていました!

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