考古学サークルなら2026年7月〜櫟本から和爾下神社・弘仁寺を巡る〜

青空の下の弘仁寺本堂 天理市

7月に入り、夏らしい青空が広がる日になりました!

2026年7月の考古学サークルならは、JRの櫟本駅をスタートして、古代豪族ワニ氏の本拠地だったといわれる櫟本の周辺から、山の辺の道を通って弘仁寺まで巡りました!

JR櫟本駅の木造駅舎

駅から少し歩くと、長寺遺跡の説明板がありました。奈良時代前期に建立された寺院跡だそうで、あたりには瓦片が散らばっていて、「長寺」「瓦釜」「大門」「経堂」といった名前が残っているそうです。

長寺遺跡の説明板

その先には、高良神社がありました。

高良神社の境内と石灯籠

次は和爾下神社へ向かいます!

「延喜式内 和爾下」と刻まれた石標

「延喜式内 和爾下」と刻まれた石標があって、平安時代の延喜式にも名前が載る古い神社だということが分かります。

和爾下神社の鳥居と石段

境内には、和爾下神社古墳の説明板がありました。

和爾下神社古墳の説明板(天理市教育委員会)

天理市教育委員会の説明板によると、和爾下神社古墳は東大寺山丘陵の西麓の台地上に造られた前方後円墳で、全長約120m、後円部の直径約70m、高さ5m、前方部の幅50m。前方部が短く、端が両側へ撥形に開く珍しい形をしているそうです。

この古墳と東大寺山古墳、赤土山古墳などで「東大寺山古墳群」を作っていて、ここから東北に約800m行ったところには和爾の集落があります。この周辺一帯は、古代大和政権の一翼をになった和爾氏の本拠地と推定されていて、東大寺山古墳群は和爾氏の奥津城(お墓)と考えられているそうです。

中の埋葬施設や副葬品は分かっていませんが、墳丘の西側には石棺材があり、昭和59年の防災工事に伴う調査では埴輪円筒棺が1基見つかっています。これらの遺物から、4世紀末から5世紀初頭に造られたと推定されています。

境内には「影媛あわれ」という説明板もありました。

「影媛あわれ」の説明板

日本書紀の武烈天皇即位前紀にある長歌だそうです。

石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り 玉盌に 水さへ盛り 泣き沾ち行くも 影媛あわれ

説明板によると、影媛は、以前から交際していた平群の鮪(しび)が、太子(のちの武烈天皇)の命を受けた大伴金村の軍に乃楽山で殺されたのを悲しんで、布留から乃楽山まで夫の葬いをしたそうです。櫟本は山の辺の道と都祁山道が交わるところで、当時の政治・経済・軍事・文化の要衝。影媛はその山の辺の道を泣きながら歩いていったのでしょう、と書かれていました。

歌の中に「高橋過ぎ」と出てきますが、神社の駐車場の脇にあった高瀬川の説明板によると、高瀬川の旧名は「高橋川」なんだそうです。

高瀬川の説明板と櫟本村領絵図

高瀬川は古代から農業用に使われてきた川で、今も櫟本の田畑に欠かせない用水河川。奈良時代には、国の役所だった「造東大寺司」が東大寺の荘園の経営にもあたっていて、『東大寺要録』によると、神護景雲3年(769年)12月から4か月ほどかけて、延べ1万人あまりの人手で、櫟本庄の田を潤すために高橋川沿いに「三ツ池」と呼ばれる溜池を造り、和爾下神社より西では条里に沿ったまっすぐな流路にする灌漑工事をしたそうです。史料に残る「水利工事」としては最大規模なんだとか!

歌の「高橋」と、この高橋川。つながっているのかもしれませんね。

次は大和国柿本寺跡へ!木立の中に木札が置かれていて、足元には大きな石が残っていました。

「大和国柿本寺跡」の木札

柿本寺跡の木立に残る大きな石

次は櫟本高塚公園へ向かいます!

「ワニ氏の里・櫟本高塚遺跡」の説明板

天理市の説明板によると、天理市の北部、櫟本町から和爾町にかけては、古代豪族ワニ氏の本拠地があった地域です。日本書紀や古事記には、この地域を「ワニ坂」と呼び、大和朝廷に仕えたワニ氏の祖先が武力にすぐれた集団だったことが書かれているそうです。和爾町という地名も、その名残だと思われます。

この公園の一帯は通称「東大寺山」と呼ばれていて、発掘調査では古墳時代の建物跡(柱穴の跡)が見つかりました。柱の跡の形や規模から特別な扱いを受けた建物だったと考えられ、盆地を見下ろす丘の上に造られた古代の祭祀場ではないか、といわれているそうです。

実際に公園からは、奈良盆地がよく見渡せました!

櫟本高塚公園からの眺め

ここからは山の辺の道を歩きます。水路沿いの道標には「弘仁寺 400m」とありました。

山の辺の道の道標と水路

田植えが終わったばかりの水田に、夏の空が映っていました。

田植えを終えた水田

弘仁寺の手前の山道には倒木が何本も重なっていて、足元に気をつけながら進みました。

倒木が重なる弘仁寺手前の山道

最後は弘仁寺へ!

青空の下の弘仁寺本堂

奈良市観光協会の公式サイトによると、弘仁寺は高野山真言宗のお寺で、秘仏の本尊・虚空蔵菩薩は弘法大師の作と伝わるそうです。創建については、嵯峨天皇が夢で見た霊山を探して建立したという説(815年)と、虚空蔵山に流星が落ちるのを見た弘法大師が開いたという説(807年)の2つがあるとのこと。13歳の厄を払って知恵を授かる「十三詣り」でも知られています。

そして、今回いちばん面白かったのが本堂の「算額」です!

弘仁寺の算額に描かれた石田算楽軒の肖像

算額は、江戸時代に数学の問題と答えを書いて寺社に奉納した額のことで、弘仁寺には江戸時代に奉納された2つの算額があり、奈良市の指定有形民俗文化財になっています。

本堂の解説によると、写真の算額は安政5年(1858年)3月に、78歳の石田算楽軒とその門弟たちが奉納したもの。縦122cm、横242cmの大きな額で、四隅と各辺の中央に飾り金具がつき、肖像画や盆栽が色つきで描かれた豪華な算額だそうです。

「弘仁寺算額」の札

問題は「芥子之種四方八方積累此間数何程」。立方体の中に芥子の種がぎっしり詰まっているとき、その立方体の一辺は何間になるか、というもので、1立方尺に芥子の種が2,700万個入るという条件つき。芥子の種の総数には「二極二千九百六十九載…」という、とんでもない桁の数が書かれています。

答えは「6兆7662億2540万1695間5尺」。解説では、一辺はおよそ130億キロメートルになると書かれていました!地球と太陽の距離の約87倍です。笑

ちなみに解説には、額の答えの数字には書き誤りがあるのでは、とも書かれていました。160年以上前の検算を今もしている人がいるのも面白いですよね。

本堂のあとは、奥之院へ。

奥之院不動尊略縁起の説明板

説明板によると、奥之院の不動尊は、弘法大師が自ら三鈷杵を使って不動明王の石仏を彫り、寺の東北の鬼門にあたる自然の岩を掘って安置したものと伝わるそうです。同じ時に三鈷杵で掘ったという「阿伽水の井戸」は、1200年たった今も湧き出していて、目の病の人がこの水で洗うと治るといわれているそうです。

弘仁寺奥之院の小堂と石灯籠

今回は約6kmくらいの距離を歩き、長寺遺跡、高良神社、和爾下神社と和爾下神社古墳、柿本寺跡、櫟本高塚公園、山の辺の道、弘仁寺と奥之院を回りました。

古代豪族ワニ氏の本拠地から、日本書紀の歌、奈良時代の灌漑工事、江戸時代の数学まで、時代をまたいで盛りだくさんの一日でした!

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