奈良県広陵町上牧町で牧野古墳や銅鐸出土地をめぐる!

牧野古墳 広陵町

本日(2022年9月2日)「考古学サークルなら」で回るのは奈良県北葛城郡上牧町!
本日回るところはこちら

上牧町史跡巡り順

  1. 牧野(ばくや)古墳
  2. 佐味田(サミタ)宝塚古墳
  3. 観音山銅鐸出土地
  4. 上牧久渡古墳群

ということで、本日は五位堂駅に来ました!
近鉄五位堂駅
近鉄五位堂駅
急な雨があると天気予報で言ってたのですが、とりあえず晴れてます!下に見えるバスロータリーで34番路線のバスを使って、馬見北6丁目まで行きます。
バス停から少し歩くと見えるのが、牧野古墳。広陵町にある整備された大きい古墳です。

牧野(ばくや)古墳

牧野古墳は上牧町と広陵町の町境にある、5世紀ごろの横穴式石室。直径は約60mの大型円墳で、墳丘は3段築成で造られている。
外から見た感じは、こんな感じ。
牧野古墳の3段築成
牧野古墳の3段築成
通常時は門が閉まっていて中を見ることはできませんが、本日は特別にあけていただき、石室の中に入らせていただきました!(牧野古墳見学したい方はこちら
牧野古墳外側羨門
実は、この牧野古墳とそっくりの古墳があるんです。みなさんご存知ですか?私も一度行ったことのある(このブログにも載せてる)古墳です。
それは桜井市にある「天王山古墳」!この羨門部を見比べると同じ!
天王山古墳羨門
どうですか?桜井市の天王山古墳の羨門部分、そっくりじゃないですか?天王山古墳は、羨道部に土が入り込んでるので狭く見えますが、
ほぼ同じ作りになっています。

それでは、石室内部へ入ります!
牧野古墳羨道部から石室を見る
牧野古墳の石室はとても広いです。しかも中は涼しい!赤坂天王山古墳の時のようにコウモリもいなくて安心w
牧野古墳石室
羨道の長さは10.4m、幅1.8mで全長17.1mを誇る大型石室がある。玄室内には奥壁に沿って横向きにくりぬき式の家形石棺が安置され、その手間には現在はありませんが、組み合わせ式の家形石棺が置かれていたそうです。
でも、玄室部の石は少しカビてるのか白くなってるところが所々ありました。
牧野古墳奥壁
牧野古墳天井石
牧野古墳家形石棺
赤坂天王山古墳と牧野古墳は、石段の数は天井石の置き方、羨道部もよく似てることから、同じ石工の集団が作った可能性があるとも言われてるそうです。
見比べてもらったらよくわかるんですが、そっくりですよ。

石室の石組は、奥壁は三段、側壁は四段、玄門袖石は一石、玄門上の前壁が二段積みとなっています。
牧野古墳石室実測図

古墳時代後期の末葉の古墳で、舒明天皇の父である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の成相墓(ならいのはか)の可能性が高い。

佐味田(サミタ)宝塚古墳

佐味田(サミタ)宝塚古墳は、広陵町、上牧町、河合町の3町の境にある古墳です。馬見丘陵中央部の尾根上に造られています。前方部を北東に向ける前方後円墳で、後円部に比べて前方部が狭長で古式の特徴を残している古墳です。
ここは、貴重な出土物が出ていて、銅鏡36面を含む約140点の遺物が出土しています。
佐味田(サミタ)宝塚古墳
実際の古墳は、広陵町からすぐに見ることができずだいぶ遠回りしないといけないということで、今回は断念。近くでお話を聞きました。
4世紀後半の古墳時代前期の古墳です。墳丘全長111.5m、後円部直径60m、後円部高さ8m、前方部幅45m、前方部高8mとなっています。
ここの出土物で特に有名なものが「家屋文鏡」と呼ばれる鏡で、鏡背に4棟の建物があしらわれていて、古墳時代の建築を具体的に示す資料として注目されています。
また、「卑弥呼の鏡」とも言われている三角縁神獣鏡も11面以上出土しています。
でも、このすごい出土物はこの河合町にはなく、宮内庁で管理してるんですって。ここで見つかったんだから奈良に返して!w
宮内庁に掲載されている家屋文鏡

観音山銅鐸出土地

この観音山銅鐸出土地に向かう間ですが、実は奈良ですごく大事な場所が見えないんだけど、何だと思うと先生に聞かれたんですがわかりませんでしたw
奈良盆地地質図
これが奈良の地質図ですが、みなさんわかります?

「大和高田」と書かれている左上が馬見丘陵で、いてる場所は「上牧」と書かれている場所あたり。ここからは馬見丘陵が邪魔をして、奈良盆地が見えないんです。
これはすごく大事なことで、昔の大和政権って奈良盆地に勢力があったため、この辺りは大和政権下でも力が及びにくい場所だった可能性があるということでした。
確かに、昔のヤマトって桜井とか明日香とかその辺りなのでなるほどなって。先生の話本当に面白くて色々ためになるなー
上牧銅鐸説明書き
この上牧銅鐸も、奈良にないんですって。色々流出しすぎですよ。。。
今は、静岡天満宮が所有してて、静岡市登呂博物館に展示されているそうです。
上牧銅鐸出土地付近
上牧銅鐸は、高さが29.4mと小型の銅鐸の部類です。弥生時代中・後期(約2000年前)に作られた銅鐸と考えられています。

銅鐸とは

 
銅鐸(どうたく)」は、近畿地方を中心に分布しています。 元々は鐘(かね)として音を鳴らし、合図を送るために使われていたようです。 銅鐸の表面には、様々な絵が描かれていることもあります。 水田に生きる動物や農耕に関連した場面が多いことから、豊作を祈る祭りの道具として使われていたのだと考えられています。

ちなみに奈良で出土している銅鐸は少ないそうです。
奈良の銅鐸出土地
図を見てもらうと、出土地の近くに点々がありますが、この辺りは全て昔の街道(河内や山城、伊賀など)の近くで出土されているそうです。
ということは、古代の街道と銅鐸には、何か意味があるのではないかと思いますよね。
先生は、銅鐸は農耕時代に豊作をお祈りしたりするのに使われていたが、そのうち使われなくなり埋められた。というお話しでしたが、
神様に近い状態のものなので、街道に埋めて守っていただく意味もあったのかもしれないですね。

上牧久渡古墳群

上牧久渡遺跡群
国の史跡になっている場所で、そのうち整備されるというお話ですが、今は草木が生い茂っている場所です。
上牧久渡3号墳では画文帯環状乳神獣鏡が出土した場所で、古墳群の丘陵最北端に築造された古墳です。
墳丘に盛土はほとんど残されておらず、築造当初より低墳丘で弥生時代後期に作られたものだそうです。弥生時代後期の古墳ってほぼ見つかっていないらしく、かなり貴重な古墳なんですって。最古級の古墳で当時の奈良盆地の社会構造を知る上で貴重なもの。
なぜこんなところで中国から渡ってきた「画文帯環状乳神獣鏡」という鏡が埋葬されてたかというと、先ほど、奈良盆地の地図を載せましたが
大阪から奈良に行くには、この馬見丘陵を斜めに降っていって、ヤマトに行く道があったのではないかという話があるそうです。
そのため、この場所はとても重要な拠点でここの豪族に力を持っていて、画文帯環状乳神獣鏡を譲り受けたんじゃないかと言われています。

終わりに

本日は、上牧町・広陵町を中心に回りました。
今まで何も知らなかった身としては、この月一回の考古学サークルでとても勉強になっていますが、古墳の建築時期によって奥壁や側壁の石段の数が変わってたり、石室の作りが違ったりと、少しずつ理解が深まっているのが楽しいです。今の目標は奈良の古墳全部回る!ですw
次回も考古学サークルならをお楽しみに!(ならかんのブログも更新頑張ります!)

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