3月に入って、日差しがずいぶんやわらかくなってきました。2026年3月の考古学サークルならは、大和郡山市の郡山城跡をじっくり巡りました!スタートはJR郡山駅です。

駅から歩いて、まずはお城の北西側、鰻堀池(うなぎほりいけ)のほとりに出ました。水をたっぷりたたえた向こうに、石垣と木立が続いています。

堀端には小さな石仏が祀られていて、お花とお供えがちゃんと置かれていました。

案内板によると、鰻堀池はもともと地元の方が農業用水として使っていた池で、郡山城を築くときにお城の内(中)堀として兼用されたのだそうです。今は大和川総合治水対策事業の一環で改修されて、城跡公園として整備されているとのこと。もとからあった池をそのままお城の堀にしてしまうって、なかなか豪快な話ですよね〜。

次は松陰堀(まつかげぼり)へ向かいます!麒麟曲輪と緑曲輪・厩の間を区切る、南北にまっすぐ長い堀です。説明板によると、東辺には石垣を設けて、その上に矢狭間と鉄砲狭間をもつ土塀が巡っていたそうです。石垣に使われているのは割って整形した割石で、これは自然石でつくる本丸や天守台の石垣よりも新しい特徴なんだとか。江戸時代に入ってからも城郭の整備がずっと続いていたことが、石の積み方から分かるというのが面白いです。廃城後は埋め立てが進んでしまいましたが、本来は幅20m以上ある豪壮な堀だったと書かれていました。

緑曲輪には郡山城情報館が建っています。郡山城の歴史を紹介するパネルや模型が並んでいて、城跡を歩く前の出発点にちょうどいい場所でした。

いよいよ本丸のほうへ。石垣沿いの道を進みます。

本丸の説明板が、とにかく読みごたえがありました。本丸全体は南北150m、東西70mの規模で、周囲は高さ10〜14mの高石垣と内堀に囲まれていたそうです。そして郡山城といえば転用石材。正面に見える本丸東面の石垣の最下部には、四角い石材が南北20m・高さ2mの範囲に約60石も集中して積まれていて、すべて墓石や地蔵などの転用石材なんだそうです。説明板には「全国的にみてもこれほど集中して積まれている事例はない」と書かれていました。初期の城づくりのすさまじさがうかがえます。

石垣を眺めながら歩いていくと、城跡のなかに立派な木造の建物が現れます。旧奈良県立図書館です。

説明板によると、明治41年(1908)に日露戦争の戦勝を記念して奈良公園内に建てられた、奈良県で最初の県立図書館なんだそうです。当初は「奈良県立戦捷記念図書館」と称し、昭和43年(1968)に本館だけがここ郡山城内へ移築されて、以後は市民会館や教育施設として利用されてきたとのこと。設計は奈良県技師の橋本卯兵衛。奈良県指定文化財になっています。和風の外観に洋風の内装が混ざった建物で、正面の車寄せがとにかくかっこよかったです。
ちょうどこの日は「秀長と郡山のあゆみ」という展覧会が開かれていました。

展示室には、郡山城ゆかりの鬼瓦や瓦、形象埴輪などが並んでいて、なかでも大きな鬼瓦は迫力がありました。郡山城ではこれまでに百件を超える発掘調査が行われていて、本丸の天守礎石や追手向櫓、常盤曲輪の礎石建物などが確認されているのだそうです。文献史料が乏しい豊臣期の遺構や遺物は、秀長の足跡をたどるうえで特に重要だと書かれていました。

外に出ると、紅梅が満開でした。お城の春はやっぱりいいですね。

次は常盤曲輪(ときわぐるわ)へ!本丸の北東につくられた広大な曲輪で、説明板によると、享保9年(1724)に郡山城主となった柳澤吉里が常盤曲輪と名付ける前は「法印曲輪」「一庵丸」と呼ばれていたそうです。これは豊臣秀長の家臣・横浜一庵(一晏法印)に由来する名前で、彼の屋敷が構えられた場所と考えられているとのこと。一庵は秀長家臣団の重鎮で、秀長の死後は跡を継いだ秀保を後見したと書かれていました。

説明板には、追手東隅櫓の発掘調査で見つかった家紋瓦の写真も載っていました。沢瀉紋(水野家)、九曜紋(松平家)、立葵紋(本多家)、花菱紋(柳澤家)。城主が替わるたびに瓦の紋も替わっていったわけで、この一枚に郡山城の歴史がぎゅっと詰まっているみたいです。

歩いていると、道端に大きな石仏が据えられていました。両面石仏です。

昭和48年(1973)に郡山城本丸の石垣から出土したもので、舟形の花崗岩の両面に像が彫られています。上端部が欠けていて、現状で高さ65cm。片面には十王の一人・泰山府君の坐像、もう一面には蓮台に立つお地蔵さんが彫られているそうです。説明板によると、亡くなった人は泰山府君の前で生前の罪を暴かれるけれど、一方で地蔵菩薩によって地獄の責め苦から救われる。つまり一つの石で「地獄への恐怖とそこからの救済」が表されている、ということでした。鎌倉後期の製作と思われ、全国的にもあまり例を見ない貴重な作例だそうです。これが石垣の石にされていたというのが、なんとも郡山城らしいところです。

次は極楽橋へ向かいます!毘沙門曲輪から本丸側に建つ白沢門に渡る橋で、本丸への正式な出入口として重視されていたそうです。明治の廃城時に撤去されましたが、発掘調査で堀底から橋の礎石が見つかり、令和3年に再建されました。礎石は1m近くある大きな石で、石塔などの転用石材も多用されていたとのこと。大がかりな礎石の据え方から、本丸への入口にふさわしい豪壮な橋だったことが分かる、と書かれていました。

橋を渡って本丸へ上がると、天守台です。

説明板によると、郡山城は天正8年(1580)に筒井順慶が入城して、大和国唯一の城郭として築城を開始し、天正13年(1585)に入部した豊臣秀長によって本格的に整備されたそうです。文禄4年(1595)の増田長盛による外堀普請で完成した城郭の形状が、現在まで良好に保たれているとのこと。その後は水野・松平・本多といった譜代大名が相次いで城主を務め、享保9年(1724)に甲斐甲府から柳澤吉里が入部して、以降は幕末まで安定した治世が続いたと書かれていました。
天守台は上面が約16×18m、基底部が23×25m、高さは約8.5m。石垣は野面積みで、自然石のほかに石仏や礎石、墓石などの転用材が多く用いられています。そのなかでいちばん有名なのが、さかさ地蔵です。

天守台北面の石垣の築石として、頭部を奥にしてうつむきに積み込まれているお地蔵さんで、仏身は約90cm、左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、大永3年(1523)7月18日の刻銘があるそうです。郡山城の石垣には、石垣の表面だけでも750基あまりの転用石材が確認されているとのこと。石材が乏しいうえに築城を急いだので、当時信仰の対象となっていたものさえ容赦なく使うところに城づくりのすさまじさがうかがえる——と説明板にはありました。毎年お城まつりの初日には、石垣に積み込まれた石仏や墓石の諸霊を慰めるために数珠くり法要が営まれるそうです。
天守台の上には、天守の礎石が並んでいます。

郡山城の天守については絵図や文献がほとんど残っていなくて、実在していたかどうかも含めて諸説紛々だったそうですが、平成26年の発掘調査で礎石が発見されて、ようやくその実在が確認されたのだそうです。だから「幻の天守」。礎石を覆う土からは、豊臣大坂城の金箔瓦と同じ笵(型)を用いた軒丸瓦なども出土していて、天守礎石の年代は豊臣政権期と考えられているとのことでした。この天守は関ヶ原の戦いの後に解体され、以後、郡山城では天守は再建されなかったようだ、と書かれていました。
天守台の上からは、大和の景色がぐるりと見渡せました。

天守台を下りて、本丸に鎮座する柳澤神社へお参りします。

最後は春岳院へ!お城から南へ下った町なかにあるお寺です。

高野山真言宗のお寺で、大和大納言・豊臣秀長公の菩提寺です。秀長公の肖像画や、江戸時代の郡山の町を支えた箱本制度の史料が伝わっていると言われています。

帰り道に、やまと郡山城ホールへ立ち寄りました。この年の3月2日に「豊臣兄弟! 大和郡山 大河ドラマ館」が開館したところで、秀長のまちはすっかりにぎやかになっていました。ホールには、采配を手にした秀長公の像も立っています。

今回は約5〜6kmくらいの距離を歩き、郡山城跡と春岳院を回りました。
















































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