勝手神社 | 源義経と逃げた静御前が法楽を舞った場所

勝手神社正面 吉野町

勝手神社について

主祭神天之忍穗耳命
社格等式内社(大)論社
創建時期不明

勝手神社に行った感想

観光地名勝手神社
住所奈良県吉野町大字吉野山2354
電車・バスでのアクセス近鉄電車吉野線、吉野駅下車口ープウェイ吉野山駅下車徒歩約20分
車でのアクセス 南阪奈道路から大和高田バイパスを経由して、小房交差点を左折
国道169号線を南下、約30分、明日香村を超えてトンネルを超えた先で左車線を使用して、県道222号 を進んで大淀町健康づくりセンター/ミズノウエルネス大淀 の標識に従う。
上比曽(交差点) を右折してそのまま 県道222号 を進み、比曽口(交差点) を左折して 国道169号に入る (熊野/吉野 の表示)
吉野大橋北詰を右折し県道39号線を約15分
駐車場駐車場: 数台分(下千本駐車場の利用が安全です)
入館、拝観料など
拝観時間

格式高い勝手神社の総本山でご利益は勝運、必勝、芸能の神様

  1. 勝手神社の歴史
  2. 静御前との関係性

勝手神社の歴史

 
勝手神社正面
 

勝手神社の創建時期は?

創建は不明ですが金峰山寺や桜本坊に伝わる『日雄寺継統記』によれば、孝安天皇六年(紀元前386年)十二月と伝えられ、大海人皇子(天武天皇)が琴を奏でられ、天女が舞い降りて、五度袖を振りながら舞ったと伝えられ、日本の雅楽では唯一、女性が演じる舞で大嘗祭や新嘗祭に行われる豊明節会で、大歌所の別当の指示の下、大歌所の人が歌う大歌に合わせて、4~5人の舞姫によって舞われる雅楽の「五節の舞」発祥地とされております。

主祭神は?

 
勝手神社本殿跡
 

御祭神は、「天之忍穂耳命・大山祇命・久々能智命・木花咲耶姫命・苔虫命・葉野姫命」の六神で、主神の「勝手」という御名のとおり「勝運の神」「必勝の神」や「芸能の神」また、「山の神」「桜の神」として、多くの方々から信仰を集めてまいりました。

この勝手神社の建物は、「三間社流造の連棟社殿で、正面左右の千鳥破風付の桧皮葺」が特徴で、全国的にも類例のない珍しい建物で細部の意匠も優美で変化に富み、日本文化の神髄を極めた貴重な建築物でありました。

日雄寺継統記には孝安天皇六年(紀元前三八六年)の創建と記載があり

『日雄寺継統記』は、吉野山の桜本坊に伝わる古巻本で、室町時代に原本の「桜本坊略伝」から書写されたものとされ、吉野連一族であった歴代住職の系図や業績などが記されている。その後も代々書き継がれてきたものという。桜本坊本、金峰山本の二種が残されているというが非公開。記載では、大海人皇子が社殿で琴を奏でたところ、天女が舞い降り5度袖を振りつつ舞ったと伝えられ、背後の山は「袖振山」と称している。また、この故事が宮中の「五節舞」の起源とされている。

静御前との関係性は?

 
勝手神社静御前舞塚
 

追ってから源義経を守るために舞った場所

源義経は、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は異母兄で河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸と呼ばれていました。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられたがのちに平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げるとそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし(源平合戦)最大の功労者となった。しかし、その後頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされました。謀反にも失敗した義経は郎党や静御前を連れて吉野に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前が捕らえられたのがこの勝手神社です。その際静御前が舞った場所には舞塚が今も残っております。

その後の静御前について

勝手神社で捕らえられた静御前は京へ戻ります。しかし途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよっていた時に、山僧に捕らえられ京の北条時政に引き渡され、母の磯禅師とともに鎌倉に送られる。

静御前は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。

 

しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな

吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

と源義経を慕う歌を唄って頼朝を怒らせるが、義朝の妻北条政子が私も同じ立場なら同じ歌を唄ったでしょうと取り成して命を助けた。

この時、静御前は義経の子を妊娠していて、頼朝は女子なら助けるが、男子なら殺すと命じた。しかし静御前は男子を産んだため、赤子は由比ヶ浜に沈められた。

その後、静御前は京に帰された。憐れんだ北条政子が多くの重宝を持たせたという。その後の消息は不明と言われています。

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