帯解から平城京南東より中心部を目指す【考古学サークルなら】

JR万葉まほろば線帯解駅 奈良市

2023年最初の考古学サークルならは、JR万葉まほろば線帯解駅に集合でした。

JR万葉まほろば線帯解駅
JR万葉まほろば線帯解駅

この帯解駅本屋は明治期の木造駅舎で明治31年に建てられたもので、北から待合室、事務室、休憩室があります。現在は登録有形文化財に指定してされております。

帯解といえば帯解寺が有名ですが、今回は行きませんでした。本当の奈良を知るためには有名な場所だけではなく、いろいろ回らないとですね笑

ちなみに帯解寺は安産祈願のお寺で徳川家や皇室ゆかりの地として有名です。最近では現在の皇后雅子様も奉納されています。

と、帯解寺の話はこれくらいにしておいて、帯解駅から帯解丘陵を西に向かい広大寺池へ行きます。広大寺池は名前の通り広大な池で約9町くらいの大きさで大和盆地の中でも1、2を争うくらいの大きさのため池です。これに続く大きさの池が天理市にある白川のため池です。
広大寺池
広大寺池の全容を1枚の写真には収められないくらいの大きさです。ちょうど帯解丘陵の西の端にある感じで、広大寺池の奥には大和郡山のシャープの工場が見えます。(写真ミスって写してなかった????)
写真奥に見える鳥居は昔使われてた木製の樋だそうです。
帯解丘陵

この広大寺池はいろいろな伝説があるのですが、聖徳太子の「稗(ヒエ)のご飯伝説」というものが有名であり、下流の稗田集落に聖徳太子が立ち寄った際、ご飯を出した時白米ではなく稗を出したそうです。その時聖徳太子が村の人に「なぜこんなものを食べているのか」と尋ねられたときに、村人が水がなかなかこず稲作ができないために稗を食べているという話を聞いたため、聖徳太子がいろいろ頑張ってここに広大寺池を作ったそうです。
現代で大事なお話としては、この広大寺池の権利は一番持っているのはどの集落が持っているかというと稗田の村が持っているそうです。稗田の村は2.5kmくらい離れた場所で広大寺池から伸びる川の下流の場所だそうです。今市城や近くの池田町は水利権をあまり持っていないそうです。
広大寺池
最近は池の研究も盛んだそうで、橿原市の益田池(平安時代くらい)や富田林の狭山池が有名だそうです。狭山池は行基が作った伝わっていたのですが、信ぴょう性が乏しく疑う人が多かったそうですが、発掘調査をしたら行基が作ったと書いてる石碑が出てきたそうです。

古事記や日本書紀には22池を作ったと書かれていて、ほぼ大和盆地にあるそうです。池も考古学の対象になるそうで、話を聞いててちょっと面白かったです。普通のため池か〜って思ってたら実はめっちゃ歴史ある池かもしれません。さすが奈良!

今市城跡

このブログを見てるあなた!また池かよ!って思ってるでしょ?そうです池です。今日は池考古学です笑
でもここは池が主役じゃなく奥の島みたいなところが主役です。ここは広大寺池から少し歩いてきたところなる今市城跡です。
上の写真の真ん中がお城後で手前の「ガマ池」と呼ばれるところの一部はお城の堀です。

今市城跡西堀
今市城跡東堀
上の写真2枚が西の堀と東の堀の遺構です。奥に堀が続くように見えますよね。
このお城、石垣とかしっかり備わってるようなものではなく山城の一種で南北が約70m、東西が約130mで今はほとんど住宅街になっててよくわからない状態です。
城主は今市氏や越智氏、筒井氏で室町時代のお城になります。
今市城堀
今市城堀跡
この遊歩道も昔の堀跡になってます。先ほどの広大寺池と同じく帯解丘陵の西の端を使って、中世にお城が築かれてました。

今市城堀跡
これもため池?みたいですが堀の遺構かもしれません。

今市城跡から歩いて10分くらいで五徳池(越田池)に到着します。今日はほんと池ツアーですね笑

五徳池
平城京
長安城

2枚目の平城京の地図を見ていただくと右下に越田池がありますが、これがこの池で平城京を建設するときに唐の長安城(3枚目の画像)を真似して作ってるので、平城京建設の時に作られた池になります。
昔はここに船を浮かべて和歌を読んでたりしてたんでしょうね〜風流ですね!
ちなみに平城京は唐の長安城を模擬ってるんですが、大きさは約1/4で作ってるそうです。昔の人の設計やばいですね。長安行って設計図作って大和に戻って作ったんですよね。やっぱ奈良時代の奈良県民すごい!笑
※平城京図はこちらを参照してます
※長安城図はこちらを参照してます

そう考えると観光の一環で池を復元して船で和歌を読むイベントとかやれば、お客さんも来るんじゃないかって思うのは浅はかですかね笑
京都みたいになったら住むのが大変なので、今の奈良がやっぱり良い!笑

さて、話は戻しまして平城京の南東から平城京の中に入っていきます!

次は穂積寺という7世紀ごろのお寺で平城京ができる前からあったとされています。お寺跡と言いつつ何もない笑
なのに、なんでここにあったとなっているのか先生に聞いたら昔の書物などに記載があったそうです。
先ほどの平城京図の右下にある東市の右下にあったお寺です。
平城京を作るとき、区画整理とかしてると思うのですが、整備するからといって昔からあるお寺を壊したりはせずちゃんと残してたようです。
この穂積寺以外にも近くには姫寺や服寺などもあったそうです。

穂積寺
穂積寺
穂積寺

遺物も少し出てきてるらしいですが、写真を見てもらったらわかりますが一部盛土がされて高くなっていたりもしています。
瓦など出てきていて、平城京が来る前からいてた士族のお寺である可能性が高いそうです。

平城京東市
平城京東市

さてここで問題!ここは何があった場所でしょうか?これ分かったら奈良検定取れるでしょうね笑
ここは平城京の東市があった場所です。奈良の偉い人看板とか建ててください笑
全然わからないですよ〜

前に奈良市九条にある西市の方に行きましたが、平城京には東市と西市の2つがありました。あまり遺構は出てきてないそうですが、
発掘調査は何度かされているようです。
発掘調査の資料はこちら
東市の場所はこの地図をご覧ください。灰色に塗っているところが東市推定地になります。
東市推定地

先生の話を聞きながら東市はここにあったのかーなんて思ってたのですが、先生は「東市推定地」と言ってたので、確定じゃないんですね。
それは奈良県もここ!って看板立てられないですね笑

ただ、奈良市もこれ以上の発掘はしないと言ってるそうなので、田んぼなどを宅地造成する時に期待ですね!

市場というのは都を経営していく上でも重要な場所で、村人が購入したりすることもありますし役人も購入したり流通にとっても大事な場所になります。もしお時間あれば現地も行ってほしいですが、上の地図と見比べても広大な市場があったことがわかります。
例えがすぐに浮かばないですが、橿原のイオンモールくらい?笑
1日遊べるテーマパーク的な市場だったんでしょうね!

このテーマパークからまた10分ほど歩くと大安寺に到着します。
大安寺は今の大きさではなく、昔はもっと大きくて見比べると全然違います。
大安寺旧境内
こちらの画像を参照させていただきました。

いや、大きすぎでしょ!!さすが南都七大寺筆頭格の大安寺!
大安寺東塔
大安寺旧境内
奈良時代には東塔ができたそうですが、西塔は同じタイミングではなく平安時代になってできたそうです。
また、お坊さんもたくさん住んでたそうで、宿坊もちょっと変わった形になってます。(今はないです)

と、ここまで約3時間くらい歩いてへとへとです笑
ということで、大安寺内でちょっと休憩!
大安寺
大安寺のダルマ
大安寺のダルマ
入るとダルマだらけで、なんだろうと思って聞いてもらったらおみくじがダルマの裏の穴に入ってるらしく、おみくじした人がダルマを飾っていってるそうです。これは完全に映えスポット!笑

大安寺の北の端
大安寺の北の端
大安寺の北の端

少し休憩をした後は、大安寺旧境内にある杉山古墳に向かいます!
大安寺を抜けると5分くらいで杉山古墳に着きます。よーーし!古墳見るぞーーー!!!

杉山古墳

え?今日何曜日?

金曜日だ!!!古墳も定休日があるんですね〜先生また連れてってください!!

ということで気を取り直して、墓山古墳と野神古墳に向かいます!
先に墓山古墳へ立ち寄ったのですが、その名の通り古墳の上がお墓群になってるので写真が撮れない笑
前方後円墳で墳丘長80m以上もある大きい古墳です。見応えもありますが写真が撮れないんです。ぜひいってみてください!

その墓山古墳から少し歩くと野上古墳があります。
野上古墳立て看板
野上古墳
大安寺古墳群の中では墓山古墳、杉山古墳、野神古墳の順で作られています。
野神古墳は竪穴式石室でくりぬき式の家形石棺で石棺の石材は阿蘇溶結凝灰岩でできているので、少しピンクが買っています。
石棺
石棺
この石材は桜井の金屋の石仏や、桜井の甲塚古墳も同じ石材が使われています。
なぜか石棺の蓋がついてるのに、上にも蓋があるんです。この石棺の蓋はどこの??謎は深まります笑
石棺の蓋
ここの人は野神古墳を大事にされてたようですね、説明を読んでもよくわかります。
京終宇野神古墳の説明

今日は帯解から大安寺までを歩きました。今までは五條とか桜井とか田舎の古墳で石室に入れるのサイコーって思ってたんですが、都会(奈良市内w)の遺跡を知るのもとても楽しかったです!
来月も楽しみ!考古学サークルならにご興味ある方はぜひご連絡ください〜!

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