考古学サークルなら2026年5月〜高安山から信貴山を巡る〜

信貴山朝護孫子寺の張り子の虎と本堂 平群町

5月の連休明け、少し汗ばむくらいのいいお天気になりました!

2026年5月の考古学サークルならは、大阪と奈良の境にそびえる高安山(たかやすやま)から信貴山(しぎさん)へと尾根づたいに歩いて、古代の山城や古墳、戦国の城跡、そして信貴山朝護孫子寺までを巡りました!スタートは、西信貴ケーブルの終点・高安山駅です。

西信貴ケーブルの終点・高安山駅

駅を出ると、目の前に大阪平野がぶわーっと広がっていました。ちょうどツツジがきれいに咲いていて、遠くにあべのハルカスや大阪の街並みまで見渡せました!

高安山から望む大阪平野とツツジ

高安山駅には、西信貴ケーブルの赤い車両も停まっていました。信貴山へのお参りは、昔は大阪側と奈良側の両方から登れるようになっていたそうです。

高安山駅に停まる西信貴ケーブルの赤い車両

次は高安山気象レーダー観測所へ向かいます!

高安山気象レーダー観測所のレーダー塔

高安山気象レーダー観測所(大阪レーダー)の説明板

説明板によると、ここは気象庁の「高安山(大阪)気象レーダー観測所」で、昭和43年(1968年)から近畿地方の雨雲を観測している施設なんだそうです。アンテナを回転させながら電波を出して、雲の中の雨粒の量や上空の風を観測しているとのこと。全国20か所にある気象レーダーのひとつで、台風や集中豪雨、雷、竜巻などの災害を防ぐための防災情報に使われているそうです。

少し進むと、山の中に横穴式石室が口を開けていました。中をのぞくと、大きな石を積み上げた壁が残っていました。

石を積み上げた横穴式石室の壁

大阪平野と奈良盆地を見下ろすこのあたりには、古墳が点々とあるそうです。立て看板もありますが、ここが高安千塚古墳群で230期以上が見つかってる大規模古墳群です。

さらに登っていくと、高安山の山頂に着きました!標高は487.5m。木に「高安山 487.5m」の標識がかかっていました。

高安山の山頂標識(標高487.5m)

次は高安城倉庫址(たかやすじょうそうこあと)へ!

高安城倉庫址の石標

高安城址倉庫礎石群の説明板

説明板によると、高安城は、西暦660年に唐と新羅の連合軍によって百済が滅ぼされ、さらに663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで日本の水軍が大敗した…という緊迫した状況のもとで築かれたお城なんだそうです。天智天皇は667年に近江大津宮へ都を移すいっぽうで、ここ高安山に高安城を築きました。対馬の金田城、九州の大宰府を守る大野城や基肄城(きいじょう)、瀬戸内の屋島城などと並ぶ、日本を守るための大規模な古代山城だったとのこと。

この倉庫址は昭和53年(1978年)に見つかり、橿原考古学研究所などが発掘したそうです。倉庫は6棟分が確認されていて、礎石の下からは平城京跡で見つかっているものと同じ暗文(あんもん)入りの盤(大皿)や杯が多数出土したことから、奈良時代前期のものと分かったと書かれていました。地面には、その礎石が今もぽつぽつと残っていました。

実際高安城跡は、いまだに場所が確定しておらず研究が進んでいるそうです。お城1つをとってもまだまだわからないことが多いというのもロマンがありますよね。

次は信貴山城跡(しぎさんじょうあと)へ!

信貴山城址の石碑

まぼろしの天空城 信貴山城の説明板

説明板によると、信貴山城は「まぼろしの天空城」とも呼ばれ、標高437mの信貴山・雄嶽(おだけ)を中心とした、奈良県では最大級の中世の山城なんだそうです。本格的に築かれたのは天文5年(1536年)で、その後、三好氏の重臣・松永久秀(まつなが ひさひで)が入って、南都に築いた多聞山城とともに大和支配の拠点にしたと書かれていました。

戦国時代の謀将 松永久秀の説明板

その松永久秀の説明板もありました。戦国時代の梟雄(きょうゆう)とも呼ばれる人で、出自や前半生はよく分かっていないそうです。永禄2年(1559年)に大和へ攻め入り、信貴山城に腰を据えて、南都を見下ろす眉間寺山に多聞山城を築いたとのこと。織田信長にいち早く従い、名物茶器の「九十九茄子(つくもなす)」を差し出したりもしたそうですが、最後は天正5年(1577年)、信長に背いてこの信貴山城に立て籠もり、名物「平蜘蛛茶釜(ひらぐもちゃがま)」を叩き割って、城に火を放って自刃したと伝わっています。

説明板には、東大寺大仏殿が焼けた永禄10年10月10日から、ちょうど10年後の10月10日に久秀が亡くなったこと、そして大仏殿が焼けた翌日も、信貴山が落城した翌日も、どちらも冷たい雨が降っていた…という話が書かれていて、なんだか胸に残りました。

松永屋敷跡・信貴山城跡への道標と石段

道標に従って、松永屋敷跡のあたりを抜けていきます。次は信貴山朝護孫子寺(しぎさん ちょうごそんしじ)へ!まずは山頂近くの空鉢護法堂(くうはつごほうどう)のあたりを通りました。

空鉢護法略縁起の説明板

説明板によると、空鉢護法は毘沙門天王の御分身で、巳(み)の姿=竜神となって現れることがあると伝えられているそうです。

そして、朝護孫子寺といえばやっぱり「張り子の虎」!大きな虎がお出迎えしてくれました。うしろの山の上には、朝護孫子寺のお堂も見えます。

信貴山朝護孫子寺の張り子の虎と本堂

信貴山朝護孫子寺の公式サイトによると、敏達天皇の時代(582年)の「寅の年、寅の日、寅の刻」に、聖徳太子がこの山で毘沙門天王を感得されたと伝わるそうです。太子は御本尊の御加護で物部守屋を討ったとされ、それにちなんで信貴山は「寅のお寺」として親しまれているんですね。

仁王門もくぐりました。

信貴山朝護孫子寺の仁王門

門前町の石畳の道を、のんびり下っていきます。

信貴山の門前町の石畳の道

最後は、旧東信貴鋼索線(きゅうひがししぎこうさくせん)の跡を下って、信貴山下駅を目指します!

旧東信貴鋼索線跡のトンネル

近畿日本鉄道旧東信貴鋼索線軌道跡の説明板

説明板によると、この道は近畿日本鉄道の旧東信貴鋼索線(ケーブルカー)の軌道跡で、三郷町の指定史跡なんだそうです。大正11年(1922年)に、山下駅(今の信貴山下駅)と信貴山駅を結ぶ鋼索線(全長1.7km)として敷かれ、長らく信貴山参りを支えてきましたが、昭和58年(1983年)に廃線となり、今は軌道跡の一部が遊歩道として整備されているとのこと。トンネルや橋の跡も残っていて、線路の跡をたどって歩いているみたいで楽しかったです!

信貴山下駅そばに保存された東信貴鋼索線の車両(コ9形)

信貴山下駅のそばには、その東信貴鋼索線の車両(コ9形)が保存されていました。

今回は約7〜8kmくらいの距離を歩き、高安山と大阪平野の眺め、高安山気象レーダー観測所、横穴式石室、高安城倉庫址、信貴山城跡と松永屋敷跡、信貴山朝護孫子寺、そして旧東信貴鋼索線跡を回りました。

古代の山城から、戦国の城、そしてお寺と鉄道の跡まで、大阪と奈良の境目を時代をまたいで歩いた一日でした!

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