6月に入り、田んぼに水が張られて、田植えのすんだ早苗がきれいに並ぶ季節になりました!
2026年6月の考古学サークルならは、奈良市の東山中にある田原の里を巡りました!田原大野のバス停をスタートして、古事記を編さんした太安万侶のお墓や、田原に眠る天皇陵をたどっていきます。

歩き始めると、田植えのすんだ水田や、山あいの静かなため池が広がっていて、のどかな里の景色が続きます。田原は奈良市といっても市街地からは遠く離れた東の山あいで、昔からお茶づくりがさかんな土地なんだそうです。

まず向かったのは、光仁天皇の田原東陵です。

参道の先に、玉垣と鳥居に囲まれた御陵がありました。

宮内庁や奈良市観光協会の説明によると、光仁天皇は天智天皇の第六皇子で、志貴皇子(施基皇子)の子にあたるそうです。781年に即位し、翌々年に亡くなったあと、桓武天皇の時代の786年にこの田原へ改葬されたと言われています。ずいぶん山深いところですが、光仁天皇にとってはお父さんゆかりの土地なんですね。
またまわりの田んぼからもたくさんの出土物がでたそうです。
ここは、古代道が交わる場所で位置的にも重要な場所だったそうです。
次は、田原といえばここ、太安万侶墓へ向かいます!

草に覆われた、こんもりとした円墳がありました。

奈良県教育委員会の説明板によると、この太安万侶墓は、昭和54年(1979年)1月に、竹西英夫さんが茶畑の改植をしていたときに見つかったそうです。出土した銅製の墓誌によって、古事記を編さんした、あの有名な太安万侶のお墓であることが分かったんだとか。墓誌には「左京四条四坊従四位下勲五等太朝臣安万侶」という名前や、住んでいた場所・位階などとともに、養老七年(723年)に亡くなったことが刻まれていたそうです。
墳丘は直径約4.5mの円墳で、中心には木櫃が置かれ、火葬した骨や真珠などが納められていたそうです。奈良時代の上級官人のお墓としては、規模も構造もとても珍しい例なんだとか。古事記の編者のお墓が、こんな山の中の茶畑から見つかったというのは、なんだかロマンがありますよね〜。昭和55年に国の史跡に指定されています。
でもここに登るのはなかなかの急勾配で大変でした。別ルートの工事も着工する?してる?らしくもう少し登りやすくなったらいいですね〜

田原の里を見下ろしながら、山道を下っていきます。
次は、志貴皇子がまつられる春日宮天皇陵(田原西陵)へ!


奈良市観光協会によると、春日宮天皇というのは、光仁天皇のお父さんの志貴皇子のこと。息子の光仁天皇が即位したあと、お父さんを春日宮天皇と追尊して、そのお墓を陵にしたそうです。さっきの田原東陵とあわせて、親子の陵が田原の里に並んでいるんですね。
御陵のそばには、志貴皇子の万葉歌碑がありました。

「石ばしる 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも」
春の訪れをうたった、志貴皇子のよく知られた歌ですね。今は初夏ですが、垂水のほとりのわらびが芽吹く春の光景が目に浮かびます。この田原のあたりには、こうした万葉の歌碑がいくつか立っていました。

田原の里をさらに西へ進むと、奈良県のヘリポートがありました。


奈良県防災航空隊や奈良県警察航空隊の拠点になっているそうで、広い芝生のヘリポートが山の上に開けていました。古い里の景色の中に、こういう現役の施設があるのはちょっと意外でおもしろいですね。
ちょうどヘリコプターも来て間近で見れました!
このあたりから山道を登っていくと、茶畑の向こうに奈良盆地がぐっと見晴らせる場所に出ました。

天気は曇りがちでしたが、遠くに奈良の街並みまで見渡せて、思わず足を止めてしまいました。田原のお茶は、こういう見晴らしのよい斜面で育てられているんですね。
途中には、地元に尽くした方をたたえる頌徳碑や、

朱色の鳥居の宅布施神社もありました。

最後は、山を下って円照寺・白毫寺の方へ抜けていきます。

道標には「天理 円照寺 3.4km」「奈良 白毫寺 1.6km」とあって、ここまで来るとだいぶ奈良の市街地が近づいてきたのが分かります。
今回は約11kmくらいの距離を歩き、田原の里の太安万侶墓や光仁天皇の田原東陵、春日宮天皇の田原西陵などを巡りました。山あいの静かな里に、古事記の編者や天皇の陵がひっそりと眠っているというのは、あらためて奈良の奥深さを感じる一日でした。



























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