2月に入って、まだまだ寒い日が続きますね。2026年2月の考古学サークルならは、聖徳太子が通ったと伝わる「太子道(たいしみち)」を、田原本町の黒田から三宅町、安堵町へと北へたどりました!スタートは近鉄田原本駅です。
太子道は、飛鳥から斑鳩へほぼ一直線に結ぶ古い道で、まっすぐな下ツ道に対して斜めに走っているところから「筋違道(すじかいみち)」とも呼ばれているそうです。聖徳太子が愛馬の黒駒に乗って、斑鳩宮と飛鳥のあいだを行き来された道だと言われていて、沿道には太子ゆかりの言い伝えや史跡がたくさん残っています。奈良盆地は碁盤の目のようにまっすぐな道が多いので、この斜めに貫く道は歩いていてもどこか特別な感じがしました。

まず向かったのは、田原本町の黒田です。ここは桃太郎ゆかりの地なんだそうです。説明板によると、道沿いにある廬戸(いほと)神社(孝霊神社)は、第7代・孝霊天皇を祀った黒田村の氏神さんで、この一帯は孝霊天皇の「黒田廬戸宮」があったと伝わる場所とのこと。

なぜ桃太郎かというと、桃太郎のモデルとされる吉備津彦命(彦五十狭芹彦命)は孝霊天皇の皇子なので、この宮で生まれ育ったと考えられていて、それでこの黒田が「桃太郎生誕地」とされているんだそうです。廬戸神社の北には、聖徳太子が孝霊天皇の宮跡に創建したと伝わる法楽寺もあって、室町時代には25の坊を数え、足利尊氏や徳川家康からも寄進を受けるほど栄えていたと書かれていました。

そのすぐそばにあるのが、黒田大塚古墳です。

説明板によると、奈良盆地の低地にある古墳時代後期(約1500年前)の前方後円墳で、三宅古墳群のひとつ。今より墳丘が一回り大きく、幅8m・深さ1mの周濠が巡っていたことが分かっているそうです。県の史跡に指定されていて、埴輪や蓋(きぬがさ)形の木製品も出土しているとのこと。
おもしろかったのが「黒田大塚古墳の変遷」の図で、古墳時代→鎌倉時代→江戸時代→現在と、時代ごとに墳丘や濠のかたちが変わっていく様子が描かれていました。周濠は奈良時代ごろに埋もれ、鎌倉時代には濠を掘り直すときに墳丘を削り、江戸時代にはさらに2本の大溝が掘られて、今のかたちになったそうです。古墳って、造られたときのまま残っているわけじゃないんですね。

次は三宅町へ向かいます!ここからは太子道の道標をたどりながら、屏風(びょうぶ)・伴堂(ともんどう)といった集落を歩いていきます。
道ばたで見つけたのが「郷神(ごうしん)さん」の説明板。毎年7月16日に垣内(かいと)で太神宮碑にお供えをして行う行事で、地蔵盆と同じように子どもたちを喜ばせ、宗教心を育てるために江戸時代末期から続いている伝統行事なんだそうです。

集落の中の道は、袋小路やL字・T字に折れる箇所が多くて、まっすぐ進むのがなかなか難しいのですが、これは昔、外敵との戦いのときに逃げやすいように、わざとこういう「迷路」のようなつくりにしていたと説明板にありました。歩いていると本当にくねくね曲がっていて、言われてみればなるほどなあと思いました。

途中でお参りしたのは杵築(きつき)神社。りっぱな狛犬が迎えてくれました。


次は屏風の集落へ!太子道の説明板によると、聖徳太子は宮古から伴堂を経て屏風へ向かうこの道を通り、法隆寺を建てるために「飛鳥の里」から「三宅の原」を経て「斑鳩の里」を行き来されたと伝わるそうです。

伴堂では「木抱かれ地蔵」さんにお会いしました。文政3年(1820年)に建てられたお地蔵さんで、平成25年5月までは「よのみの木(榎)」に抱かれるように木の根元にすっぽり包まれていた、日本でも珍しいお地蔵さんなんだそうです。今は木から離れて祀られていますが、人の悩みや苦しみを聞いてくださるありがたいお地蔵さんだと、説明板に地元の方の語り口そのままで書かれていて、ほっこりしました。

屏風は、鎌倉時代の高僧・忍性(にんしょう)菩薩が生まれた地でもあります。

説明板によると、忍性上人は建保5年(1217)にこの屏風の里で生まれ、16歳で額安寺(かくあんじ)で出家。西大寺を復興した叡尊上人に師事して、貧しい人や病に苦しむ人の救済に一生を捧げたお坊さんだそうです。病院やお風呂を開いたり、橋をかけたり道を造ったりと、今でいう社会福祉のような活動にたくさんの業績を残し、後醍醐天皇から「菩薩」の号を贈られたとのこと。飛鳥時代の聖徳太子だけでなく、鎌倉時代の名僧もこの土地から出ているというのが、なんだかすごいですね。

屏風には、聖徳太子ゆかりの白山神社もあります。説明板によると、太子が黒駒を柳につないで「腰掛石」に腰かけて休憩されたと伝わる場所で、境内には黒駒にまたがった太子の像が立っていました。この像はもともと昭和5年に建てられた銅像でしたが、戦争中の金属供出で一度は台座だけになってしまったと書かれていました。「屏風」という地名も、村人が太子をもてなすときに屏風を立てて風を防いだことに由来すると伝わるそうです。

次は安堵町(あんどちょう)へ!しばらく歩くと、いきなり大きな案山子(かかし)が目に飛び込んできました。

なんとこれ、聖徳太子をモチーフにした高さ約12mの案山子だそうです。大人の男の人およそ7人分!説明板によると、この像は太子道沿いに、法隆寺のある北西の方角を向いて立っているとのこと。田んぼの真ん中にそびえる太子さまは大迫力で、みんな思わず見上げてしまいました。

最後は飽波(あくなみ)神社へ!素盞嗚命(すさのおのみこと)を祀る安堵庄の総社で、聖徳太子の「飽波宮」の跡と伝わる場所なんだそうです。江戸時代には牛頭天王社と呼ばれ、江戸時代以後は東西の安堵村の氏神さんになったとのこと。春日造・檜皮葺の神殿で、雨乞いのときに奉納される「南無手(なむて)踊り」の衣装は、今は県の文化財に指定されていると書かれていました。

そのあとは、安堵町文化観光館「四弁花(しべんか)」の前を通りました。安堵町は陶芸家・富本憲吉の生まれた町でもあるんですね。

飛鳥川沿いの道をのんびり歩いて、この日の太子道めぐりはおしまいです。

今回は約8〜9kmくらいの距離を歩き、太子道(筋違道)沿いの黒田大塚古墳や、三宅町・安堵町の聖徳太子ゆかりの史跡を回りました。




























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