考古学サークルなら2025年12月〜龍田古道と亀の瀬・松岳山古墳を巡る〜

「かめのせ」の駅名標そっくりの府県境の看板 柏原市

師走に入って、朝晩はぐっと冷えてきましたね。落ち葉を踏みしめながら歩くのが気持ちいい季節になりました。

2025年12月の考古学サークルならは、奈良と大阪の境目を流れる大和川ぞいの「龍田古道(たつたこどう)」を、亀の瀬の地すべりを見ながら西へ歩きました。JR奈良駅に集合して、電車でJR三郷駅までひとっとび。ここからスタートです!

JR三郷駅の駅舎

龍田古道は、奈良時代に平城宮と難波宮を結んだ古代の官道だそうです。大和と河内の間には南北に山が連なっていて、そこを越えるのは大変。そのぶん、東西に流れる大和川ぞいの、標高差の小さいこの道が昔からよく使われてきたんですね。日本遺産「龍田古道と亀の瀬の地すべり」にも認定されているそうです。

歩き出してすぐ、磐瀬の杜(いわせのもり)の万葉歌碑がありました。鏡王女(かがみのおおきみ)の「神奈備の 磐瀬の社の 呼子鳥 いたくな鳴きそ 我が恋まさる」という歌が刻まれています(万葉集 巻八・一四一九)。

磐瀬の杜の万葉歌碑(鏡王女の歌)

道標にしたがって、龍田古道をてくてく。「関地蔵・三室山・峠八幡神社」と書いてありました。

龍田古道の道標

次は峠八幡神社(とうげはちまんじんじゃ)へ向かいます!こぢんまりとしたお宮ですが、本殿は屋根の下に色鮮やかな彫刻がのこっていて、見ごたえがありました。

峠八幡神社の本殿

続いて関地蔵(せきじぞう)へ。看板によると、天武天皇の時代(673〜686年)に、大和を中心にして、東国へは不破の関(岐阜)、山陰へは石見の関(島根)、中国へは吉備の関(岡山)、そして難波へは龍田の関(奈良)が置かれ、これが「日本四関」と言われているそうです。このお地蔵さんは、その龍田の関の近くに祀られていたと伝わる、通称「関の地蔵さん」。水害などでお顔がだいぶ傷んでいました。

関地蔵(関の地蔵さん)

さらに歩くと、いよいよ亀の瀬(かめのせ)の地すべりエリアに入ります。ここは大阪府柏原市。案内板によると、亀の瀬の地すべりは約4万年前から起きていたと考えられていて、『日本書紀』や『万葉集』には「恐(かしこ)の坂」と記され、昔から人々に恐れられた場所だったそうです。

龍田古道と亀の瀬の地すべりの案内板

今は地すべりを止めるために、地下水を集めて抜く「集水井(しゅうすいせい)」や「排水トンネル」がたくさん造られていました。集水井は直径3.5m、深さ18mもあるそうで、のぞきこむとちょっとこわい。

集水井15号の標識(直径3.5m・深さ18m)

いちばん驚いたのが、地すべり対策の工事中に見つかったという「旧大阪鉄道 亀瀬隧道(かめせずいどう)」。昭和6〜7年(1931〜32年)の地すべりでトンネルが崩れて鉄道が分断され、線路は大和川の対岸に移されて、今もJR関西本線として使われているそうです。埋まっていたレンガ造りのトンネルが掘り出されて、見学できるようになっていました。

旧大阪鉄道 亀瀬隧道の入口

府県境には「かめのせ」という、駅名標そっくりの看板が。左は下流、右は上流。奈良県三郷町と大阪府柏原市のちょうど境目です。

「かめのせ」の駅名標そっくりの府県境の看板

眼下の大和川は、このあたりだけ川幅がぐっと狭くなって、岩の間を勢いよく流れていました。川の真ん中にはどんと大きな岩。地すべりで山から崩れてきたものでしょうか。

大和川の中の大きな岩

次はJR河内堅上(かわちかたかみ)駅の方へ。線路ぞいをのんびり歩きます。

JR河内堅上駅

しばらく行くと、青谷遺跡・竹原井離宮跡(たけはらいのりきゅうあと)。案内板によると、奈良時代に平城宮と難波宮を結ぶ行幸路として龍田道が使われていて、そのちょうど中間あたりのこの青谷に、聖武天皇のころ、瓦葺きの常設の離宮「竹原井離宮」が設けられたそうです。すぐ南を大和川が流れる、気持ちのいい場所でした。

青谷遺跡・竹原井離宮跡の案内板

大和川にかかる吊り橋を、ゆらゆら渡ります。「15人まで」と書いてあって、ちょっとドキドキ。

大和川にかかる吊り橋

対岸には河内国分寺(かわちこくぶんじ)の塔跡がありました。国分寺は奈良時代に国ごとに一対建てられた官寺で、ここは地名や瓦から河内国分寺と推定されているそうです。昭和45年の発掘で塔の基壇(一辺19.2m)が確認され、白鳳時代(7世紀末)の瓦も出ているとのこと。

河内国分寺塔跡の案内板

次は國分神社(こくぶじんじゃ)へ向かいます!石段をのぼった先にお社があります。

國分神社の社標と鳥居

そして今回のいちばんの目的地、松岳山古墳(まつおかやまこふん)です!國分神社のある丘の上にある、国史跡の前方後円墳。案内板によると全長は約130m、板石を積んだ部分を加えると約155mにもなるそうです。古墳時代前期の後半、今から1600年ほど前のものと考えられています。

松岳山古墳の案内板

後円部の頂上には、大きな石棺がむき出しで残っていました。蓋と底、側面を組み合わせた6枚の石でできていて、蓋と底は花崗岩、側面はやわらかい凝灰岩なんだとか。もともとはまわりに安山岩を積んで、竪穴式石室になっていたそうです。

松岳山古墳の石棺

石棺の南北には、穴のあいた大きな石が立っていました。石室の一部のようですが、どんな役割だったのかはよく分かっていないそうです。穴からのぞくと、なんだか秘密の窓みたいでした。

松岳山古墳の立石の穴からのぞいた景色

そういえば、江戸時代にこの松岳山の丘から、国宝の銅製「船氏王後墓誌(ふなしのおうごぼし)」が出土したという言い伝えもあるそうです(はっきりした出土地点は分かっていないとのこと)。渡来系の船王後という人の経歴を刻んだ、日本でも古いほうの墓誌の一つなんだとか。

最後はJR高井田(たかいだ)駅へ。夕日がきれいでした。

JR高井田駅

今回は約7〜8kmくらいの距離を歩き、龍田古道と亀の瀬の地すべり、竹原井離宮跡から松岳山古墳までを回りました。奈良と大阪をつなぐ古代の道を、地すべりの歴史といっしょにたどれる、盛りだくさんの一日でした。

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