考古学サークルなら2025年4月〜石舞台から奥飛鳥・稲渕を巡る〜

稲渕の菜の花畑 明日香村

桜が満開、菜の花も咲きそろって、いよいよ春本番という一日になりました!

2025年4月の考古学サークルならは、石舞台をスタート地点に、飛鳥のいちばん奥、稲渕(奥飛鳥)のあたりまで南へ下って、そこから飛鳥駅まで戻ってくるという、ぐるっと欲ばりなコースを歩きました。桜と菜の花に包まれた明日香村を、古墳と宮殿跡とお寺跡をたどりながら歩きます。

石舞台古墳の園地に咲く桜と菜の花

石舞台園地の桜と菜の花

まずは石舞台古墳の園地から。芝生のまわりは桜と菜の花が満開で、みんなしばらく写真を撮る手が止まりませんでした。

菜の花畑ごしに眺める石舞台古墳

石舞台古墳は、盛り土(封土)が失われて、中の巨石を積み上げた横穴式石室がむき出しになっている、特別史跡の古墳ですね。被葬者は蘇我馬子ではないかと言われています。この日は中には入らず、菜の花畑ごしに遠くから眺めるかたちになりました。

次は都塚古墳へ向かいます!

都塚古墳の墳丘

都塚古墳の横穴式石室の開口部

都塚古墳の家形石棺

石舞台のすぐ近くにある都塚古墳は、「金鳥塚(きんちょうづか)」とも呼ばれていて、正月元旦に金の鳥が鳴くという伝承があるそうです。看板によると、6世紀後半の後期古墳で、墳形は東西41m・南北42mの方墳。川原石を2〜3石ずつ、少なくとも6段以上も積み上げた段状のとても特殊な構造をしているそうで、復元図を見るとまるでピラミッドのようでした。横穴式石室は全長12.2m、玄室は長さ5.3m・幅2.8m・高さ3.55mもあって、中には二上山産の凝灰岩をくり抜いて造った刳貫式(くりぬきしき)の家形石棺が据えられています。石棺は長さ2.23m・幅1.46m・高さ1.72m。石舞台古墳などの大型方墳が並ぶこのあたりでも、都塚はいちばん古く位置づけられていて、飛鳥前史を理解するうえで大事な古墳なのだとか。石室の中まで見られて、思っていたよりずっと立派で驚きました。

次は坂田寺跡へ!

坂田寺跡の広場と桜

坂田寺跡は、持統天皇のころには大官大寺・飛鳥寺・川原寺・豊浦寺とともに「飛鳥五大寺」の一つに数えられたお寺の跡だそうです。飛鳥仏をつくった仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)の父、多須奈(たすな)が、用明天皇2年(587)に天皇の病気平癒を祈願して建てたと伝わるそうで、渡来人の建てた寺としては最古とも言われているとのこと。もともとは鞍作氏の氏寺で、尼寺だったらしいです。今は静かな広場になっていて、桜がきれいに咲いていました。

次はマラ石へ向かいます!

祝戸のマラ石

このマラ石、明日香村にある謎の石造物の一つで、看板いわく男性器をかたどったものなのだそうです。もともとは真っすぐ立っていたとも言われていて、地元では飛鳥川をはさんだ対岸の丘を「フグリ山」と呼んで、マラ石と一対のものと考える説もあるとか。子孫繁栄や農耕の信仰に関わる遺物と考えられているそうで、飛鳥にはこういう不思議な石がほんとうに多いですね。

次は飛鳥稲淵宮殿跡へ!

飛鳥稲淵宮殿跡の石碑

田んぼの中に石碑が立つこのあたりは、飛鳥稲淵宮殿跡。飛鳥川の左岸にある7世紀中頃の大型建物群の跡で、昭和52年(1977)の発掘調査で4棟の掘立柱建物が見つかっているそうです。正殿は四面に庇(ひさし)をもつ大型の建物で、推定で正面24.6m・奥行10.2m。中庭には大きな玉石を敷きつめるなど、とても整ったコ字形の配置だったそうで、天皇の宮殿か皇族の邸宅と考えられているとのこと。大化改新のあと、白雉4年(653)に中大兄皇子らが難波から飛鳥にもどってきたときに一時期営んだ「飛鳥川辺行宮(あすかのかわらのかりみや)」の有力な候補地なのだそうです。

ここから先は、いよいよ奥飛鳥・稲渕の里へと入っていきます。

稲渕の菜の花畑

稲渕の棚田

稲渕といえば棚田。斜面いっぱいに広がる棚田と、その脇に流れ込むように咲く菜の花の黄色が、ほんとうにきれいでした。日本の原風景という言葉がぴったりですね。

次は男綱(おづな)へ!

飛鳥川に架かる橋と桜(稲渕の綱掛神事の男綱)

飛鳥川に架かる橋のたもとに、「稲渕の綱掛神事(つなかけしんじ)」の看板がありました。これは稲渕と栢森(かやのもり)の両大字に伝わる神事で、毎年1月に行われるそうです。子孫繁栄と五穀豊穣を祈るとともに、悪い疫病などが道や川を通って入ってこないように押しとどめて、住民を守るための神事なのだとか。稲渕では全体を神式で行い、飛鳥川の上に陽物をかたどった「男綱」を掛け渡して、神所橋(かんじょばし)に祭壇を設けてお祓いをするそうです。いっぽう上流の栢森では仏式で行い、「女綱(めづな)」を掛け渡すのだそうで、男綱と女綱が対になっているのがおもしろいですね。

次は龍福寺へ向かいます!

龍福寺の石造層塔(竹野王の石塔)

稲渕の集落の中にある龍福寺には、立派な石造の層塔がありました。これは「竹野王(たけののおおきみ)の石塔」とも呼ばれるもので、軸の部分に天平勝宝3年(751)の年号が刻まれていて、正しければ日本でいちばん古い、銘のある石造層塔なのだそうです。凝灰岩でできていて、今は三重目までと四重目の一部が残っています。1300年近く前の年号がちゃんと読めるというのは、すごいことですよね。

次は南淵請安のお墓へ!

南淵先生墓の石碑

「南淵先生墓」と刻まれた石碑が立っていました。南淵請安(みなぶちのしょうあん)は、隋や唐に渡って学問を学んで帰ってきた学者で、中大兄皇子や中臣鎌足に学問を教えた人だと伝わっています。のちの大化改新につながる人たちの、いわば先生だった人ですね。お花が供えられていて、今も大切にされているのが伝わってきました。

飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社の鳥居

すぐ近くには、飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社(あすかがわかみにいますうすたきひめのみことじんじゃ)。なんと日本でいちばん名前の長い神社なのだそうです。200段近い石段を登った上に小さな社殿があって、飛鳥時代には皇極天皇がここで雨乞いをしたという伝承も残っているとか。名前を一度で読める人はなかなかいないですよね。

次は巨大案山子(かかし)へ!

稲渕の巨大案山子

稲渕の名物、巨大な案山子が田んぼの真ん中にどーんと立っていました。毎年テーマを変えてつくられるそうで、この日は太鼓をかかえた大きな案山子。棚田を歩く道すがら、ふっと笑顔になれるスポットです。

次は定林寺跡へ向かいます!

定林寺跡の土壇と桜

定林寺跡で見つけた飛鳥時代の瓦片

立部(たつべ)の集落まで下りてくると、定林寺跡がありました。聖徳太子が建立したと伝わる四十六ヶ寺の一つと言われていて、寺跡からは飛鳥時代の瓦片などが出土するそうです。歩いていると、足もとに古そうな瓦のかけらが落ちていました。寺域は狭いものの、発掘調査で塔跡・土壇・礎石などの遺構が確認されていて、塔の心礎からは塑像(そぞう)の菩薩像の首などが見つかったのだそうです。昭和41年に国の史跡に指定されています。

このあと、道ばたの案内標識には「天武・持統天皇陵」「鬼の雪隠・鬼の俎板」「高松塚古墳」といった飛鳥のそうそうたる史跡の名前が並んでいて、あらためて明日香村の史跡の濃さに驚かされました。今回はそこから欽明天皇陵の方へ。

吉備姫王墓の猿石

欽明天皇陵のすぐ隣にある吉備姫王墓(きびひめのみこのはか)の垣の中には、有名な「猿石」がありました。花崗岩でできた石像が4体あって、左から順に「女」「山王権現」「僧」「男」と呼ばれているそうです。これらは18世紀の初めごろに近くの水田から掘り出されたもので、それ以前どこにあったのかは分かっていないのだとか。とぼけた表情がなんともかわいらしくて、飛鳥の石造物の中でも人気者ですね。ちなみに吉備姫王は欽明天皇の孫にあたり、皇極(斉明)天皇や孝徳天皇のお母さんにあたる方だそうです。

最後は岩屋山古墳へ!

岩屋山古墳の切石の横穴式石室

飛鳥駅のすぐそばにある岩屋山古墳は、古墳時代の終末期(7世紀前半ごろ)に造られたと言われる古墳です。中に入ると、きれいに加工された切石を組み上げた横穴式石室が広がっていて、天井も壁もびしっと平らで、思わず声が出るほどの精巧さでした。この整った石室は「岩屋山式石室」の標式(見本)とされているそうです。被葬者は斉明天皇や吉備姫王などが候補に挙がっているとのこと。

近鉄飛鳥駅

そして飛鳥駅にゴール!朝から夕方まで、たっぷり一日歩ききりました。

今回は約8〜9kmくらいの距離を歩き、石舞台から都塚古墳・坂田寺跡・マラ石・飛鳥稲淵宮殿跡、奥飛鳥・稲渕の棚田と男綱・龍福寺・南淵請安墓、定林寺跡から猿石・岩屋山古墳までを回りました。桜と菜の花の飛鳥を、古墳時代から飛鳥時代、奈良時代までまたいで巡った、盛りだくさんの春の一日でした!

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