考古学サークルなら2025年2月〜天理軽便鉄道跡と斑鳩・小泉を巡る〜

赤い前掛けをつけた小泉神社の狛犬 斑鳩町

2月の考古学サークルならは、まだ寒さの残るころでしたが、お天気に恵まれて青空の下を歩けました!

今回のテーマは「天理軽便鉄道」の廃線跡。大正から昭和にかけて法隆寺と天理のあいだを走っていた小さな鉄道の跡をたどりながら、斑鳩から安堵、そして大和郡山の小泉まで、聖徳太子ゆかりの史跡と古墳をぐるっと巡りました。

JR法隆寺駅のバス停

スタートはJR法隆寺駅から。駅前には、大きな石の道標が二本ならんで立っていました。

法隆寺と廣瀬神社への道標の石柱

一本は「聖徳太子御建立 法隆寺七堂大伽藍 是ヨリ北十二丁」、もう一本は「官幣大社 廣瀬神社 東南十五丁」と刻まれていました。昔の人はこの石を目印に法隆寺や廣瀬神社へお参りしたんやろなあと思うと、なんだか嬉しくなりますね。

さて、いよいよ天理軽便鉄道の跡をたどります!

天理軽便鉄道の廃線跡の道

田んぼのあいだに、まっすぐ続く一本の道。これがかつての線路の跡やそうです。

天理軽便鉄道跡の案内板(安堵町)

途中にあった安堵町の案内板によると、天理軽便鉄道は大正4年(1915年)に開業して、新法隆寺駅から平端(ひらはた)を経て天理駅までの約9キロメートルを走っていたそうです。ところが昭和20年(1945年)に運行休止、昭和27年(1952年)に廃線となりました。途中、いまの安堵駐在所のあたりに「大和安堵駅」があったと書かれていました。

廃線跡の切り通しに残る橋

線路の跡は、こんなふうに切り通しになって残っているところもありました。言われてみれば、たしかに鉄道が通っていた雰囲気がありますね。

次は上宮遺跡公園へ向かいます!

太子道と刻まれた石碑

途中、「太子道」と刻まれた大きな石碑がありました。太子道は、聖徳太子が斑鳩宮から飛鳥へ通ったと伝わる筋違道(すじかいみち)のことやそうです。近くには、聖徳太子の愛馬・黒駒を葬ったと伝わる駒塚古墳や、その世話をした舎人・調子丸の墓と伝わる調子丸古墳への道標もありました。

上宮遺跡の掘立柱建物群の案内板

上宮遺跡公園に着きました。ここは法隆寺の南東約1.5キロのところにあって、平成3年度の発掘調査で、奈良時代の大きな掘立柱建物群が整然とならんでいたことがわかった遺跡です。案内板によると「正殿」と思われる建物は東西7間(約21メートル)×南北3間(約9メートル)以上、「後殿」と思われる建物は東西5間(約15メートル)×南北2間(約6メートル)もあったそうです。

平城宮や平城京と同じ文様の瓦も見つかっていて、『続日本紀』に出てくる、称徳天皇が行幸のときに泊まった「飽波宮(あくなみのみや)」ではないかと考えられているそうです。聖徳太子が亡くなったと伝わる「飽波葦墻宮(あくなみあしがきのみや)」も、この近くにあったのかもしれませんね。

次は中宮寺跡へ向かいます!

中宮寺跡「寺域の東を限る塀」の案内板

いまの中宮寺の東、約400メートルのところに、飛鳥時代のお寺の跡が広い史跡公園として残っていました。案内板には「寺域の東を限る塀」とあって、園路や地面の丸い石は、発掘で見つかった塀の柱の位置を示しているそうです。

史跡中宮寺跡の広場と土壇

ひろびろとした広場のなかに、土壇(基壇)がのこっていました。

中宮寺跡の塔の心礎

こちらは塔の心礎(しんそ)。塔の中心の柱を支えた礎石で、お釈迦さまの遺骨(舎利)を納めたところやそうです。

中宮寺跡の金堂跡・塔跡の案内板

案内板によると、中宮寺跡は南半分が塔の跡、北半分が金堂の跡で、塔と金堂を南北にならべる「四天王寺式」の伽藍配置。これは聖徳太子が建てた斑鳩寺(若草伽藍)と同じ並びやそうです。金堂の基壇は、飛鳥時代の切石積み(二上山西麓産の凝灰岩)から、平安時代の瓦積み、鎌倉時代の土仕上げへと、時代とともに姿を変えていったことがわかっているとのこと。国の史跡に指定されています。

中宮寺跡をあとにして、田んぼのなかを北へ歩いていくと——

柵の向こうに開口する横穴式石室のある古墳

柵の向こうに、横穴式石室がぽっかりと口を開けた古墳がありました。のぞいてみると、大きな石を組んだ立派な石室です。(この古墳の名前は看板が見あたらなくて確かめられませんでした。ご存じの方おられたら、コメントやXのならかんまで教えてくださいね。)

田園ごしに見える三重塔

さらに歩いていくと、田んぼの向こうに三重塔がすっと立っているのが見えました。斑鳩には法起寺と法輪寺、ふたつの三重塔がありますね。なかでも法起寺の三重塔は慶雲3年(706年)の建立で、現存する日本最古の三重塔として国宝に指定され、世界遺産にもなっています。田園ごしに眺める塔は、ほんとうに絵になりました。

次は、いよいよ石室に入れる古墳へ!

笹尾古墳の案内板

大和郡山市小泉町の笹尾(ささお)古墳です。案内板によると、昭和56年(1981年)に建物の建設中に見つかって、翌年に発掘調査が行われた古墳で、直径27メートルの円墳のまわりを幅2メートルの空堀がめぐっていたそうです。

笹尾古墳の横穴式石室の内部

石室は全長12.5メートルの巨石の横穴式石室で、玄室のなかには二上山鹿谷寺(かたにじ)付近でとれる凝灰岩の家形石棺が置かれていました。出土した須恵器から、6世紀末〜7世紀前半ごろに造られたと考えられているそうです。平安時代から室町時代には、お墓や信仰の場としても使われていたとのこと。実際に石室のなかまで入れて、みんなでその大きさに感心しました!

笹尾古墳から、小泉の町へ入っていきます。

小泉大塚古墳の墳丘

こちらは小泉大塚古墳。もとは全長88メートルの前方後円墳で、古墳時代前期(4世紀前半ごろ)の築造と考えられています。昭和37年(1962年)の開発で前方部が壊されて、いまは後円部だけが丸くのこっているそうです。発掘では銅鏡が7面以上も見つかったとのことで、埴輪や葺石は無かったそうです。

小泉の町なかの石仏

町なかを歩いていくと、石仏や古い石造物があちこちに。落ち着いた雰囲気の町並みでした。

小泉城跡の堀と白い櫓

お堀のむこうに、白い櫓が見えてきました。このあたりは小泉城(小泉陣屋)の跡で、江戸時代は片桐氏の小泉藩の中心だったところやそうです。

最後は小泉神社へ!

赤い前掛けをつけた小泉神社の狛犬

赤い前掛けをつけた狛犬が出迎えてくれました。ちょっとかわいらしいですね。

小泉神社の楼門

こちらの立派な楼門は、明治のはじめに小泉城から移されたものと伝わっていて、お城の門が神社に残っているのは珍しいそうです。ご本殿は室町時代のはじめごろの春日造で、大正9年(1920年)に国の重要文化財に指定されています。

小泉神社をあとに、ゴールのJR大和小泉駅へ。

今回は約7〜8キロくらいの距離を歩き、天理軽便鉄道の跡から、上宮遺跡や中宮寺跡、笹尾古墳や小泉大塚古墳、そして小泉神社まで、斑鳩と大和郡山の歴史をたっぷり巡りました。

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